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【『本能寺の変』の黒幕は……いない!

2018年04月23日
(【『本能寺の変』の黒幕は……いない! )


http://news.livedoor.com/topics/detail/14615626/


・私は「秀吉の『中国大返し』」に少年の頃から違和感を感じている。いくら「秀吉は天才だった」「軍師に『黒田官兵衛』が居た!」と言われても、「毛利への密偵(本能寺の変の伝令)が、たまたま秀吉の陣中に現れた」ってのは不自然すぎる。


・第一「10日間で200キロの大返し」は出来すぎているし、それまで『三木の干殺し』『鳥取の飢え殺し』という「時間がかかり」「非情な」秀吉の戦法を、毛利が知らぬ筈は無い。この
「時間がかかる」対峙の中で、私は「秀吉と毛利は出来た」と読むのだ。


・『毛利の沈黙』なくしては、この『秀吉の中国大返し』は有り得ないし、秀吉と毛利にとって「最大の脅威」は〔魔王・織田信長〕であったろうと容易に推察が出来る。秀吉には〔黒田官兵衛〕が居たが、毛利には〔安国寺恵瓊〕という怪物軍師が居た。


・だからこの「『応仁の乱』の著者」の主張は真面目すぎて面白くないが、一応「敵に塩を送る」気分でご紹介しておこう。


・ライブドアトピックスから、ダ・ヴィンチニュース の記事を以下。


・「【『本能寺の変』の黒幕は……いない! 光秀をバカにしすぎ。『応仁の乱』の著者が陰謀論を論破】ダ・ヴィンチニュース 2018年4月22日 20時0分」


・「〔明智光秀〕が本能寺の変で〔織田信長〕を殺害した……。この歴史的事実には、様々な説が提唱されている。朝廷黒幕説、足利義昭黒幕説、実は秀吉が裏で手を引いていた、実は家康が協力者として名乗りをあげていた……。このあまりにも動機の分からぬ「不可解な」事件には、多くの陰謀論がふりまかれている」


・「本能寺の変に限らず、歴史には、少なからず「陰謀」が存在する。 そしてすべてを~~の陰謀で説明しようとする『陰謀論』も。 陰謀論は面白い。読者はミステリー小説を読んでいるような感覚になるし、『普通の人は知らない=自分だけが知っている真実』に快感を得ることもできる」


・「だが、そんな『陰謀論』を徹底論破して、『学問としての歴史学』を教えてくれるのが3月9日に電子書籍が配信された『陰謀の日本中世史(角川新書)』(呉座勇一/KADOKAWA)である。『応仁の乱』(中公新書)がベストセラーとなり、今、注目を集める歴史学者の最新作だ」


・「本書では『本能寺の変の黒幕は誰か』という話だけでなく、『源義経は陰謀の犠牲者だった』『足利尊氏は陰謀家』『日野富子は悪女』『徳川家康は石田三成を嵌めた』など、平安後期から江戸初期にわたる、『まことしやかにささやかれる陰謀論』を最新学説で『一蹴』するという内容だ」


・「要はメディアが面白おかしく取り上げたネタ的な歴史や、自称研究者の思い込みで提唱されている『陰謀論』に惑わされず、『史実を見極める目』を養うための一冊でもある。 本書……とても読み応えがあった。内容はもちろんのこと、『史学という学問』の面白さを再発見した気分になった」


・「ちなみに私は学生時代、日本史学を専攻しており、一応学問的に歴史を学んだ人間である。大学4年間の勉強だけなので、あまり偉そうなことは言えないが、そんな私から見ても『ネタでしょ』『明らかにおかしい』と思うような『歴史本』『歴史テレビ番組』は存在する」


・「例えば『○○は戦死しておらず、海外で生きていた』とか、『徳川埋蔵金は実在する』とか、そういう類のものだ。得てして、そういうトンデモ説の方が面白いので、『それはそれ』として楽しんで読んだり、観たりはするのだが、『学問としての歴史ではない』という前提のもとに受け入れている」


・「何が言いたかったかというと、本書は、そういうフィクションとしての面白さではなく、『学問として追究する歴史の面白さ』を大いに感じさせてくれたということだ。 本書いわく、歴史学は『『確からしさ』を競う学問』だという」


・「史料を発掘したり、一つ一つ丁寧に時間をかけて読み込んだり、同時代に書かれている内容を比較したり、先行研究を読んだりと……そうやって『事実を積みあげていく』学問である。 だが、研究者は真実を軽々しく口にしない」


・「当然だが、誰も過去をさかのぼって『見てくる』ことはできないので、『答え』は出ない。だからこそ史料を相手に『こうだったかもしれない』『この可能性もある』と仮説を立てては捨てるを繰り返し、『自分が導き出した一つの説』を『発見』することが学問としての『楽しさ』だと思う。決して『創作』ではなく、あくまで『史料』から『発見』するだけなのだ」


・「だが陰謀論を語る歴史学者の中には、100%自説が正しいと信じて疑わない方もいるとか。著者はそういった歴史学者の『史学的には荒唐無稽な自説』が影響力を持ち、世に広まってしまうことにも懸念を抱いているようだ」


・「さて、本書の一番の魅力は『歴史学の真の楽しさを教えてくれること』だと思っているのだが、内容にも触れておこう。 光秀が信長を暗殺したのは、『突発的な単独犯行』だと本書は述べている。 光秀にどのような『想い』があったかは分からない。だが、黒幕がいて綿密に立てられた計画ではなく、『突然現れたチャンスを逃すまい』とした結果なのではないか、ということ」


・「『そんな穴だらけの無謀なことする?』と多くの方が思われるかもしれないが、『死角のない完璧な犯罪計画など存在しない』と著者の呉座さんは述べる。 陰謀論を信じ過ぎる人は、『結果』から逆算して、一番『得をした人が犯人』だと単純に結論づけたり、一つの事件を、全て計画通りに進めた『スーパーマン(黒幕)』がいると考えてしまったりする」


・「『史実』はそんなに単純ではない。『タナボタ』で得をした人もいただろうし、『追い詰められてダメ元でやってみたら、成功しちゃった』人もいるだろう。『感情で行動した』ことが、大きな事件となってしまい、後世の人が『まっとうな理由』――自分の息子を後継者にしたかったから――などの後付けをしたなんてこともあるのではないか」


・「歴史学は、数学のような『正しさ』があるわけではなく、真実は永遠に闇の中といっても過言ではない。だが、その闇の中から断片を拾い上げ、一つの『説』を導き出すという行為は、奥が深く飽きることがない。 本書を読んで、その面白さに気づいてほしいと思う。(文=雨野裾)」・・・


・「この記事を書いた」人も「この本を書いた人」も、「面白くない方々だろうな?」と思う。22日・深夜に読んでしまったが、投稿は明23日としよう。記事読みに疲れた!印象。


《『陰謀の日本中世史(角川新書)』(呉座勇一/KADOKAWA)》


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『零戦』と『隼』、どちらが優秀な戦闘機だったか

2017年08月19日
(『零戦』と『隼』、どちらが優秀な戦闘機だったか)


http://www.sankei.com/premium/news/170818/prm1708180001-n1.html


・こんな面白い記事を、何で私は取り上げなかったのか?記事を読んだ記憶は有るが、8月5日は6記事を投稿して疲れていたのか、6記事がどれも面白過ぎたのか・・・本日改めて取り上げる。タイトルがいい、【『零戦』と『隼』、どちらが優秀な戦闘機だったか】、老人になっても胸がワクワクする。


・産経ニュース・[いまも飛ぶ大戦機]から、記事を以下。


・「【『零戦』と『隼』、どちらが優秀な戦闘機だったか? 実際に戦わせてみた】産経ニュース・[いまも飛ぶ大戦機] 2017.8.18 16:00」


・「さほど飛行機に興味のない方でも、『ゼロ戦』『ハヤブサ』という機体名はご存じだろう。『ゼロ戦』は帝国海軍『三菱零式艦上戦闘機』、そして『ハヤブサ』は帝国陸軍『中島一式戦闘機 隼』の略称である。(※8月5日にアップした記事を再掲載しています)」


・「零戦と隼は、太平洋戦争前のほぼ同時期に開発が始まった。両機は列国戦闘機を凌駕する運動性能と長大な航続距離が要求され、同型式のエンジンを採用したため、似通った性能とスタイルになった。それは設計上の必然であった。交戦した米軍は、しばしば両機を混同していたほどである」


・「したがって『もし零戦と隼が戦ったら、どちらが強いだろう?』という疑問がわくのも当然である。そこで強烈なライバル意識が介在する帝国海軍と帝国陸軍は、メンツは賭けるが記録には残さない、非公式な“手合わせ”(模擬空戦)を実施した。その結果、全般的に零戦の方がやや優勢だったと伝えられている」


・「アメリカに現存する零戦22型と隼III型甲を世界で初めて編隊空撮した際に、零戦の米国人パイロットは、『零戦は空気抵抗が小さいせいか、スピードが乗って減速しにくいので、隼を追い越しそうになり、編隊を組むのが難しかった』と証言している」


・「同時代に開発され、同型式のエンジンを搭載していても、徹底して空力的洗練を追求した零戦の方が、性能的にやや勝っている証拠の一端といえるだろう」


・「その半面、空力を追求するあまり、構造・工作が複雑になってしまった零戦は、生産性の悪さが、資源・人材の乏しい当時の日本には足かせとなったことも事実である」


・「生産性の悪さに関して、現在も零戦の新造作業を行っている米レジェンド・フライヤー社は、『欧米戦闘機と比較して、製造に四倍も手間がかかる』と語っていたほどだ」


・「世界で唯一、飛行可能な隼III型甲(手前)は、千島列島占守(シュムシュ)島で回収した残骸。零戦22型はニューギニア・バボ飛行場跡で回収した残骸を基に、それぞれ新造された(Photo:Atsushi "Fred" Fujimori)」


・「かたや隼は、割り切った設計を導入することで、戦時下の必須条件である生産性を高めていた。あくまで性能を追求して、理想を達成するか? あるいは妥協しても、現実的な生産性を優先するのか? 零戦と隼は、スタイルこそ似通っていても、設計思想は対極に位置する戦闘機であった。(文・藤森篤)」・・・


・【プロフィル】藤森篤(ふじもり・あつし) 日本大学理工学部航空宇宙工学専修コースで、零戦設計主務者・堀越二郎博士らに学ぶ。30余年間、飛行可能な第二次大戦機の取材・撮影をライフワークとする。著書は『零戦五二型・レストアの真実と全記録』『現存レシプロ戦闘機10傑』(エイ出版社)など。


《帝国陸海軍を代表する二大戦闘機、零戦(奥)と隼(Photo:Atsushi "Fred" Fujimori)》

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【営業マン夜戦記】07.《戯れせむとや:コンソメスープ》

2017年01月05日
(【営業マン夜戦記】07.《戯れせむとや:コンソメスープ》)


・当時【外資系コンピュータ販社・名古屋ブランチ(名古屋駅前・大名古屋ビルジング1階裏側)】の(もうこの話の時には〔計算機&タイプライター販社〕から〔コンピュータ販社〕に)、中2階へ上る階段前には1枚1枚透明クリアファイルに挟んで通してコピーする、能力は低いくせに我体だけは大きい、まるで私に似て前世紀の遺物っぽい複写機がデン!と大場を取っていた。


・そ奴が大場を取っている為にコーヒーの自動販売機が置けない!・・・コーヒー自販機が今のように屋外に百花繚乱の如く置かれている時代とは違い、企業内設置が一般的だった頃の話である。

・コーヒー自販機の企業内設置の売り込みに来たネェちゃんが結構マブイ女だっただけに、中2階営業部は口を揃えて(扇動者は勿論私)総務部に、「総務室に複写機を入れて場所空けろ!」の大合唱だった。


・自販機からドリップされるコーヒーを紙コップで飲むのがトレンディだった頃だから、「複写機は営業の皆さんの方が使用頻度は高いですよ!」の総務部の抵抗を圧殺し、結局声の大きい営業部の横暴で狭い総務室を更に狭くするべく件の複写機を押し込んで、とうとう憧れのコーヒー自販機が設置されることとなった!


・私も30をチョッと過ぎていて、地位はもう中間管理職の華:スーパーバイザーになっていた。


・このコーヒー自販機は、導入動機が不純だっただけで即日即効で大活躍を始め、営業部・技術部・システム部では大好評だった。“大酒呑みでヘビースモーカーの多い”、今思えば〔先行き絶対短命集団〕のようなブランチのメンバーは、1日10杯のコーヒー馬鹿(この先輩の顔色はホント、コーヒー色だった)迄現れて、「カチャカチャン!ジャーッ!」の音の絶える間が無いほどだった。


・しかもみんな20代から30代前半というヤングが殆どを占める若い会社だっただけに、現代のような「メタボだ豚児だ〕は皆無で、みんな太ることと糖尿なんか念頭に無く、〔ミルク増量・砂糖増量〕の“甘い甘い”コーヒーをガブ飲みしていたものだ。因みに今は107kgを頂点に、常時95kgデコボコの私も、当時は未だ70kgを少し出たばかり、外面だけは『長身痩躯の美青年?』だった。


・これまた白皙の美男子で先輩スーパーバイザーのS氏は、そのスタイリスト振りがそれこそ半端ではなかった。それは生き方、着こなしは言うに及ばず、歩き方、話し方、電話の応対、部下との接し方、酒の呑み方、飯の食い方、女の子との遊び方、床内(とこうち)の作法etc.etc.全てを通して徹底したものだった。


・それは時にはスタイリストを通り越して、むしろ〔コミカル〕の域にまで達していた。たまに「アホが粋がって、美味くも何とも無いブラックコーヒー啜って、『いや、コーヒーの味が分かるにはやっぱ、ブラックでしょう』などと抜かしゃがってアホが!あんな“ゲンノショウコ”みたいなモン、飲めるかぁ!」と曰もうて、〔ミルク増量・砂糖増量〕の“甘い甘い”コーヒーを、右肘張って型付けて、美味そうに飲んでおみえだったものだ。


・からかうのに「急所を外したら、逆に真剣で切りつけられて大怪我するかも知れない」この気難しいS先輩を、どうしても“からかい”たい!“嵌め”たい!・・・情念にも似た想いを募らせていた私は、或る日乾坤一擲(けんこんいってき)の行動に出た!


・イラストもレタリングも、そこそこ達者な私は、かねてから階下階段前の件のコーヒー自販機の、〔押しボタン〕の寸法を入念に測って【コンソメスープ】なる〔架空押しボタン紙〕と、『お待たせしました!ダンディな貴方に飲んで戴きたい!コンソメスープ出来ました』なる〔宣伝小ポスター〕を用意して機会を窺っていた。


・その日は中2階の働き者の営業部隊はもう全員出撃して、後には“コーヒーガブ”のS先輩も含めた私ら“働かない”スーパーバイザー(S先輩・もう1人のS先輩や所長の垣さん)が、グダグダと〔前夜の戦勝報告〕や〔尽きないヨタ話〕で盛り上がっていた。


・私はタイミングを見計らって、スッと会話から抜けて階段を降りて行った。


・コーヒー自販機の前に立った私は、それこそ“疾風枯葉を巻く”勢いで俊敏に手早く、【コンソメスープ・架空ボタン紙】を【ブラックコーヒー・ボタン正】の上に貼り、〔コンソメスープ宣伝小ポスター〕も少し斜めに自販機に貼り付けた!


・総務部屋に有る〔番茶〕を紙コップに注いでから、再びギシギシと階段を上って徐(おもむろ)に会話の場に戻る。「ズズーッ、ズッ!ホウ、中々新製品のコンソメスープも美味いわ!」と独りごちた私にS先輩、「な、なんや?なんや?コンソメスープも有るんかいな?」「あ、新製品です。結構イケますよ!」と番茶の飲み残しを見せる。


・「ほうか、ほな買うてこ!」・・・S先輩、何の疑いもなく階段を降りて行く。私と、計画を知る東海営業所長、もう片方のS先輩の3人が、ニコチャンマークの顔になって“斜め鈴なり”に階段下を眺めている。


・何事にも慎重でスタイリストの件のS先輩、先ず〔指差(しさ)〕しながら自販機前の小ポスターを眺めてほくそ笑んでいる。「ダンディな貴方に飲んで欲しい!」のキャッチコピーが効いたようだ!それからS先輩、徐にコインを入れ始めた。もう一度〔指差〕し確認しながら、【コンソメスープ・ボタン】を押す。


・ジャーッという音。S先輩、ゆったりと紙コップを左手で取り出し「ン?ン??」、真っ黒な液体を凝視している。そしてもう一度【コンソメスープ・ボタン】を〔指差〕。軽く小首を傾げて、恐る恐る紙コップを口にして「グェッ!ペッ!ペペッ!!」、スタイリストは今の失態を見られたか!?と慌てて総務室を振り返っている・・・その滑稽なリアクションに、堪らず階上の3人転げ回る!大成功!


・後日談が有る。36歳10ヶ月から2度目のご奉公でお世話になった【光学系事務機メーカー販社】の、東京は芝・泉岳寺近くの三田本社。私は海側5階の〔オフィスコンピュータ営業部〕。未だ上場前で後年大社長・名誉会長にまでなられたT社長も当時は若干47歳で社長室も小さく、同じ5階の山側に有った。ところがコーヒー自販機は海側に有ったのが事件の発端である。


・「いいか織伊!ここはこれまでの自由奔放な外資と違い、社長、上長が絶対の国産名門企業だ。上に噛み付いたり、今までみたいな“言いたい放題”は慎んでくれよ!俺ら移籍組80人みんなが迷惑するからな!」・・・転進組若頭だったF先輩から、“未だやってもいねぇのに”懇々と事前説教が。


・クソッ!ならばどの程度のモンか逆にやったろうじゃねぇか!と私は密かにケツを捲くって、今は懐かしい【S先輩・コンソメスープ事件】の再現を試みることとした。


・「♪この道は いつか来た道」・・・で手順は手慣れたもの!その日は珍しくダントツ一番に出社してパタパタと手際よく5階海側コーヒー自販機に①【コンソメスープ・架空ボタン紙】を【ブラックコーヒー・ボタン正】の上に、②〔コンソメスープ宣伝小ポスター〕も少し斜めに貼り付けて仕掛けは完了! 


・朝一から予想通り、朝飯食って来ない独身社員らが次々と引っ掛かり始めスベリ出しは上々、と思いきやとんでもない事態に発展してしまった!気さくなT社長が、ナ、ナント、トイレの帰り、御自ら〔コンソメスープ〕(出るのは当然ブラックコーヒー)を買ってしまって、「5階海側のコーヒー自販機が壊れとるぞ!」と総務部に直々のクレーム!


・「総務部が慌てて飛んで来ますよ!」と、日頃から私に好意的で、この悪戯に悪ノリしていた東大出のエリート女史からのご注進!!


・〔いくさ〕で難しいのは“転進”。〔戯の仕掛け失敗〕でも同様に“引き足”が肝要!・・・商談中だった客をショールーム応接に残したまま、私はエレベータより確実な階段を5階まで駆け上がって“仕掛け撤収”!疾如風、徐如林・・・(思えば若く、体も軽かったなぁ)


・間も無く飛んで来た総務氏、何度も何度もテストを繰り返して首を傾げている。わざとらしく、しかしさりげなく通りかかった私、「何?どうしました?」「いや、っかしいんですよぉ。T社長がコンソメスープがどうとやらこうとやら仰ってるんですが、んなモン、どこに有るんですかねぇ?」「社長、また夕べどっかで武勇伝の酒が残ってるんですよ、きっと」・・・


・口笛をピューと吹いてその場を離れて来は来たが、口笛が心なしか震えていた。危うし鞍馬天狗!危うし友ちゃん!・・・私の〔戯れせむとや〕がこの国産名門企業で開花するのは、これから10ヶ月の後の名古屋支店転勤(「10ヶ月で転勤たぁ前例が無い。友ちゃんあんた、思いっ切り飛ばされて来たんだよ」と支店長)まで待たねばならない。  (了)

営業マン夜戦記】03. 《老いて装う》

2016年11月22日
(【営業マン夜戦記】03 .《老いて装う》 )


※出版を諦めた【昭和残友伝】の、WEB公開です!


・大男専用のカジュアルファッション供給メーカーが、バリエーションを増やし頑張ってくれているので有難い。当初はメーカーへ“ヌッ”と行って、「飛び掛かって首を絞めてやろうか」と思うほど、4L・5Lサイズになると〈ノーセンス〉のオンパレードだったが、大男でも私のような〈センサイコジ〉ならぬ〈センサイジジィ〉も居ることをメーカーも察知したようで、(ホントはセンシブルな若い大男が増えたのだが)ちっとはマシなカジュアルファッションが楽しめるようになった。


・実際の話1942年生まれでガキの頃から大男の私は、カジュアルファッションでは苦労の連続だった。靴は町に靴屋さんが多く、オーダーメードだったが、上っ張りやパンツ(ズボン)は、2Lからギリギリ3Lまでの品揃えは有っても、4L・5Lは滅多に無い時代が人生のほぼ全般に亘って延々と続いたものだ。


・2000年初冬、生きるか死ぬかのがん病棟で、手術4日前に体に合う手術着が無いことが判明し、(当時の看護婦長(師長)が、「あぁ、下のコンビニで全部揃います」と、私のホントの大きさを見くびっていたのだ)丁度東京出張中の社員に指示して両国の相撲用品街まで力士用の浴衣(ガーゼ浴衣)を2枚買いに走って貰った。


・宅配便で浴衣が届いた日は、病棟中の看護師さん達が入れ替わり立ち代り笑顔で病室へ見学に来た。有名力士の名前が染められているとでも思ったのだろうが、私の体型は、大相撲なら三段目くらいだから、勿論名前は染められてない!お陰で大手術前の悲壮感は飛んでしまったが(両国:ライオン堂さんに感謝!)・・・


・極論すれば、“オーダースーツとパジャマだけ”で最近まで暮らして来たように思える。それほどカジュアルファッションには無縁な、選択の自由など全く無い「着られるものなら何でも」と言うような“来し方”だった。


・55歳の出張の折、大阪・梅田:阪神百貨店『トラヤ』さんで、私のデカ頭にも被れる【ボルサリーノ・モデル】の頭囲64cmのキャップ(野球帽)を偶然見付けたのがキッカケで、遅蒔きながら壮老年・大男の楽しいカジュアルファッションの旅が始まった。つまりは初心者であるがそれだけに「夕陽よ急げ」の状況下、研究熱心でもあるので「皆様にも一読の価値有り」と独善している。


・真夏の海は若者たちを祝福し灼熱の浜に誘うが、壮老年世代にはただ素っ気無く無情である。純白のウエディングドレスは、花の色香も褪せさせてしまう若い花嫁の美しさを極限にまで盛り上げるが、姥桜の「後追いウエデング姿」にはその純白が災いとなり、一転して盛り下げの笛を吹く。


・丘陵の住宅団地の坂道は、メルヘンチックな家々の屋根と青空にマッチして若い夫婦にはお似合いだが、壮老年夫婦には心筋梗塞と骨粗しょう骨折を誘引する“魔坂”以外の何物でもない。ことほど左様に〔装の品格の世界〕も、青年と壮老年を混成(ハイブリッド)してしまったら語れない。このサイトも、メイン読者である男性:壮老年向けの私の“ひとり言(ご)ち”である。


・サラリーマンのスーツ姿は、長年それが〈戦闘服〉だっただけに、壮老年世代になっても皆一応サマになっている。農民は野良着が、漁師はゴムの合羽が戦闘服で、皆そのフィールドでは生き生きとして良く似合っているのと同じだ。しかしたまのお祝い事で、ひとたび農民や漁師が借り物の礼服(*1)とやらの黒上下、白いYシャツに白ネクタイで装うと、その赤銅色の顔と襟足が白と黒のコントラストにアンマッチで、〈着せ替え人形状態〉に陥ってしまう。


・壮老年世代の元サラリーマンのカジュアルファッションにも同じことが言えるのではなかろうか?壮老年世代カジュアルファッションの象徴は、①スニーカー、②リップハットであるが、稀に若々しい③キャップの人も居る。(但し②にも③にも同好会の大きなワッペンバッジかなんかを付けるのは止めよう)


・問題は①である。壮老年世代のカジュアルファッションを台無しにしている象徴は、この〈安物のスニーカー〉だと断言して良い。この〈砂〉の土台の上には、如何なるお洒落な楼閣も築けない。第一若々しいジーンズファッションを台無しにする。運動にスニーカーは必須アイテムではあるが、運動とファッションは別物である。私も気付いて、ゴロゴロ有った〈安物のスニーカー〉をみな捨てた。


・カジュアルファッションの土台はやはり革靴であり、それも柔らか素材の〈革のスニーカー型〉、或いは紐が綺麗な〈編上げ型〉なんかがお勧めだ。色も多様なので、黒を基本に煉瓦色(赤茶)も楽しい。靴下はスポーツタイプでベージュとグレィの夫々〈淡・濃〉と紺が有れば十分だが、この際白は止めよう。(夏のスーツに白靴下、冬のブレザーに白靴下という〈定番:勘違いオジサン〉は未だに多いが、陰で「軍足オヤジ」と無粋の代表にされているからご用心。


・スニーカーもちょっとは煩いモノを楽しもう。私もお陰で10足以上有ったスニーカーも今や選りすぐりの3、4足・・・逆に愛おしくさえ思えて来る。


・さぁパンツ(ズボン)に行こう。壮老年世代のカジュアルファッションで悲しいのは、〈FadedIndigo〉や〈HardStoneWashed〉など空色系のジーンズが多い、つまり〈DarkIndigo〉は自発的に遠慮して〈色褪せた、明るいジーンズ〉に走っていることである。


・明るいだけならいいが、Fadeoutはサイナラである。そんな薄羽蜉蝣のような気弱な色はこの際止めよう!しかも裾を大きく折り返して、「未だ少年のように脚が伸びる」と勘違いしているのか、「単に“切り捨て惜しみ” している」のか、小柄な人なんざ、折り返しが膝下の半分にも達しているのを時々見る。


・もう、〈ボロボロファッション〉の岸に行ってしまった若者なんかに気兼ねせず、我らは凛々しく〈DarkIndigoのジーンズ〉と、何故か壮老年世代の方が良く似合う〈KhakiとOliveのコットン・カジュアルパンツ〉を揃えよう。勿論近所の洋服リフォーム屋さんでズボン裾はスッキリと丈調整してカットして貰う。


・ついでにベルトは幅広のBrownが良い。パンツをキメれば、まさか下に“くたびれたスニーカー”を持って来ることにはなるまい。


・さて上半身だが、これはバラエティに富みすぎているので論評は遠慮しよう。ただ一つ、サファリジャケットの流れを汲むのだろうか、あのポケットだらけの〈アウトドア・ベスト〉は避けよう。ダブダブでポケットだらけの〈チノパン〉が似合わないように、壮老年世代がやたら着ているこの〈アウトドア・ベスト〉は、「アチコチしまい忘れしないように」落ちて来た記憶力をカバーし、さらにポケットをネット化してシースールーにしたようで、何ともいじましいファッションである。


・このベスト着用は壮老年世代を一気に10歳は老けさせて見せる。話は違うが、先だってオールドファッションの〈ビッグホワイトの開襟シャツ〉を手に入れた。初めカーキのカジュアルパンツの上に着たら、【処刑前の山下将軍】みたく見え、黒のサマーパンツに変えた。靴は黒地に白紐のローカットバスケシューズにしてみたら、ナント55年以上タイムスリップして甘酸っぱいハイスクール時代の風を感じた。コスプレではない!カジュアルファッションの楽しいところである。(了)


《*1=多くの日本人が〈礼服〉だと信じているあの上下黒ファッションは、実は洋服業界の遣り手が、「ネクタイを白・黒揃えるだけで冠婚葬祭両用!」とセコく考え付いた日本独特のファッションで、ヨーロッパでは〈マフィアスタイル〉とされている。正確には〈略礼服:ディレクターズ・スーツ〉=上着は黒、下はコールズボン(モーニングの縞ズボン)である。因みに韓国の結婚式には赤ネクタイ、中国の葬式には白ネクタイである。念のため 》

【営業マン夜戦記】02. 《織伊友作と唄》

2016年11月15日
(【営業マン夜戦記】02. 《織伊友作と唄》)

※出版を諦めた【昭和残友伝】の、WEB公開です!


・K氏という歌手が居る。昭和の大作曲家最後の内弟子で、〈氷雨〉〈泣きながら夢を見て〉など歌唱力の高い実力派。久々にまた大人の歌:〈わすれ傘〉が中ヒットした努力の人でもある。


・私の亡き二人の恩人(石出御大)・畏友(紋太センパイ)のご縁で、K氏とは何度も酒席・唄席を共にした。何軒も回ってK氏の歌を聴いていた畏友が、と或るスナクラで「おい、絶対俺の方が上手いよな」と私に耳打ちをした。面白がって早速K氏に言いつけてやると、K氏苦笑いして「じゃ、北島モンを」と仕切り直し。


・それから後は、畏友も私も、それこそクラブフロアに正座してK氏に詫びを入れ、声を抑えて貰った。何せ店がひっくり返るほどの声量なのである。重低音から超高音まで、鍛え上げられたプロの歌手の声帯は想像を絶した共鳴をする。


・音に聞こえた酒豪のK氏、ちょっとロレをもつれさせながら「あのねぇ、5人10人に聴いて貰う時と50人に聴いて貰う時と何百から1000人を超えた観客に聴いて貰う時と、プロは声の調節が出来なきゃねぇ。ま、皆さん、シン(品)良く好かれるように唄うには、声を張らずに呑み込んで唄うことです・・・ハイ」


・5歳年長の亡き畏友(紋太センパイ)は、ネオン遊びだけでなく文章・詩作・歌唱・ファッション・ゴルフ・グルメetc.すべての面で私の師匠で、又無類の凝り性・努力家でもあった。さっそくムキになった畏友と私のスナック回りが始まって、互いに厳しくチェックし合いながらほぼ1ヶ月で“呑み込んで唄う”テクをマスターした。


・“呑み込んで唄う”とは、決して“囁くように唄う”ことではなく、一言で言うと“内に張って唄う”ことである。歌詞明瞭に堂々と唄いながら、周りには耳当り良く軽々とやかましくない歌唱法・・・ま、素人ながらガキの頃から歌の手練(てだれ)で、長じて半端じゃない金をネオン街につぎ込んで歌を磨いた二人だっただけに、K氏のアドバイスに即反応して、お蔭様の“歌の新境地”に到達することが出来た。


(一緒に新境地に達しながら65歳で逝ってしまった畏友の通夜の晩の追悼会は、私と、私と同い年の弟さんのスーさんとK氏の3人で、半端なく降りしきる雨の中、東の空が仄かに白む頃まで泣きながら行われた)


・畏友は歌のマナーには特にうるさかった。誰かが唄い始めるとそれを聴かず、みんな一斉にインデックス(当時)から自分の歌を探し始める昨今の風潮を「品が無い!」「長幼の序がなってない!」と怒り、「人の歌を聴いて自分も上手くなるんだ」と、他席の酔客の歌もいつも黙然と傾聴していた。


・カラオケボックスの有り方にも厳しく、「個室の安全な空間で、仲間内でジャレ合って唄っても上手くはならん。見知らぬギャラリーへの適度な緊張感が歌を上達させる!」としきりに薀蓄を垂れていた。


・「歌はなぁ、先ず電信棒の陰に隠れて、メロディがやって来るのを静かに待つんだ」「電信棒ですか?」「うん、それでなぁ、メロディを遣り過ごしておいて、その背中に飛び掛かるとか」「・・・」「未だ有るぞ。電信棒の陰から先に飛び出して、メロディに『とおせんぼ』するとか」・・・畏友の歌唱蘊蓄にはゲンナリしたものだが、今は大いに理解出来る。


・畏友ほどうるさく見なくても、昨今の唄席のマナーの崩壊はひどい。若者はマイクを口に押し込むようにしてケタタマしい高Hzノイズを撒き散らし、夫婦者やカップルは自分の部屋の中のように厚顔無恥な痴態を曝し、団体のオッサン連の、〈マイウエイ〉を筆頭の我が物顔の長唄には辟易させられる。


・要は“周りへの配慮、遠慮”という日本人の奥床しさが消し飛んでしまったようだ。歌は心地良く軽々と唄い、品良く周りを気遣うレディス・エン・ジェントルメンの姿を見なくなって久しい。


・さて自画自賛になるが、かつて畏友から「お前はガナッてるか怒鳴ってるだけだ!」とこき下ろされた私の歌唱も、K氏と畏友のお蔭で“品性”を身に付けて“高み”に立つことが出来ただけでなく、唄に“色香”も付いて来たようである。


・唄える歌曲数が半端じゃないことも相俟ってか、お蔭でフラリと入るどの店もWelcomeムードになり酔客にもウケが良くこっちも楽しい。幾つまで声が出るのか震えが来ないのかは知らないが、「粋な下町のオッサン」として、“品の良い歌と品の良い唄い方”をネオン街に長くキープして行こうと思っている。
                                    (了)

信長

2015年09月11日
(信長)

http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%e7%b9%94%e7%94%b0%e4%bf%a1%e9%95%b7%e3%81%af%e3%80%8c%e7%a5%9e%e3%82%92%e5%86%92%e6%b6%9c%e3%81%99%e3%82%8b%e6%82%aa%e9%ad%94%e3%80%8d%e3%81%a0%e3%81%a3%e3%81%9f%ef%bc%9f%e3%82%ad%e3%83%aa%e3%82%b9%e3%83%88%e6%95%99%e3%82%92%e5%88%a9%e7%94%a8%e3%81%97%e5%85%b5%e5%99%a8%e7%94%9f%e7%94%a3/ar-AAeahJq?li=BBfTjut


・「町の信長研究家」の私にとって、堪らない記事である。長文だが面白いので皆様に読んで戴くため、余分な前フリは止めよう。ただ「当時の大坂の古地図」から、石山本願寺(後の大坂城)の位置だけお知らせしておきたい。


・MSNニュースから、ビジネスジャーナルの記事を以下。

・「【織田信長は『神を冒涜する悪魔』だった?キリスト教を利用し兵器生産】ビジネスジャーナル 2015/09/11」(写真:GOOGLE画像から、石山本願寺(大阪城)の在った位置=古地図)


Photo_2


・「ほかの武将と違い、織田信長は本拠地となる居城を固定することはなかった。居城の固定化は地域支配を磐石にするが、信長はそれを否定したのだ。清洲城、小牧山城、岐阜城、安土城への移転は、明らかに戦略目標に沿ったものである。天下を統一するため、それにふさわしい拠点を必要に応じて変えるというものだ。信長のこの柔軟性は、見習うべきものがある」


・「信長が安土城の次に考えていたのが、京都を含む近畿から中国、四国、九州が射程に入る大坂(おおさか:現在の大阪。解説:「おおざか」とも)である。そこで信長は、のちに豊臣秀吉が大坂城をつくる場所にあった石山本願寺に目をつけた。本願寺は、淀川と大坂湾に臨み、さらに瀬戸内海から西国への交通の要地に当たる」


・「信長が本願寺の制圧を考えたのは、戦略上の重要拠点を掌握したいという理由のほかに、大きな思惑があった。それは、流通と生産を支配するというものである。本願寺は、親鸞を開祖とする、一向宗と呼ばれていた浄土真宗の本山だ。本願寺の勢力は、各地の寺院を中心にして、『守護不入』といわれる世俗権力の介入を排除する、独自の『寺内町(じないまち)』を形成していた。いわゆる寺内特権といわれるものである」


・「寺内町の多くは河川や港湾に面しており、租税や労役などの課税をかけられていなかった。さらに、流通機構を一手に引き受けて、食糧や衣料、武器などを交易・生産する拠点となっていたのだ。そのため、ほかの戦国大名が支配する地域とは違い、極めて豊かで繁栄していたという」


・「信長は、地域の制圧と同時に、寺内特権を所有する本願寺の勢力圏を支配することで、経済と流通、生産の拠点を抑え、そこから上がる莫大な収益の確保を狙った。そのため、信長は各地の寺内町を恫喝し、従わなければ武力を行使した。そして、本山となる本願寺を脅迫して、退去を要求したのだ」


・「本願寺は、親鸞の血脈となる法主(ほっす)の顕如(けんにょ)を『生き仏』と仰ぎ、寺内には八町とも十町ともいわれる寺内町を形成して、数万人が生活していた。当時では、日本最大の都市である。日本にキリスト教を伝えた宣教師のガスパル・ヴィレラは、『本願寺の法主は、日本の富の多くを所有している』と語ったほどである」


・「★信長対本願寺の戦いのはじまり・・・信長としては、この本願寺の広大な伽藍を含めた寺内町の生産・流通の機構をそのまま残すかたちで支配したかった。しかし、顕如および本願寺は信長の要求を拒否し、戦う姿勢を鮮明にした。しかも、全国の門徒に対して、一斉に挙兵し、本願寺に兵員と食糧を集めることを命令したのである」


・「かくして、信長と本願寺は10年にもわたって戦いを続けることになった。信長がこれほど長期的に戦ったのは、異例である。信長は、浅井長政や朝倉義景、足利義政、武田信玄らとの戦いの合間を縫って、本願寺を攻略しようとした。しかし、堅牢な本願寺は紀伊の雑賀衆(さいかしゅう)の鉄砲隊を後ろ盾にして、何度も信長軍を撃退した。その間に、伊勢長島や越前で挙兵した本願寺門徒との戦いに追われた信長は、兵力を集中して本願寺を攻撃する力はなかった。それが、戦いが長期化したひとつの要因でもある」


・「また、信長が本願寺攻略に手こずったのは、信長に敵対する勢力が本願寺と連携したことも理由である。前述の長政や義景はもちろんのこと、信玄、上杉謙信、さらに毛利輝元までが本願寺と同盟を結び、対信長戦線を構築した。その中心となったのが、本願寺である」


・「武将たちは、本願寺と手を結ぶことで、信長軍の兵力の分散化を図り、さらには自国内の本願寺勢力にも協力を求めることができる。そのため、信長は、個別に武将たちと戦いながら、本願寺と対決しなければならなかった。最初に本願寺が決起したとき、信長はさほど脅威になるとは思っていなかっただろう。しかし、それはまったくの思い違いだった。結果的には、本願寺を敵に回したことにより、信長が描いていた天下統一の構想は頓挫したといってもいい」


・「力では攻略できないと見た信長は、天皇と朝廷に働きかけて、本願寺との講和を模索する。とにかく、本願寺が石山から退去すれば、本願寺および顕如の安全を保証する。さらに、本願寺が支配していた地域を返還するというもので、信長にしては珍しい妥協案を提議している。信長にとって、本願寺の位置は、それほど戦略的に重要な意味があったのである」


・「それでも本願寺の対決姿勢は崩れなかったが、毛利水軍による食糧の補給が途絶えると、ようやく朝廷の調停に従って本願寺は石山から退去、紀伊の鷺森(さぎのもり)に移転した。しかし、本願寺を接収した信長軍の過失で、本願寺と寺内町は焼亡してしまう。これに激怒した信長は、本願寺攻略の責任者となる佐久間信盛を追放した。信長が10年もかけて本願寺と戦ったのは、寺内にある生産と流通の機構をそのまま受け継ぎ、戦略上の拠点にしたかったからである。その構想は、秀吉に受け継がれ、のちにその地に大坂城が造営されることになる」


・「★信長がキリスト教を受け入れた理由・・・また、信長はキリスト教の宣教師と親しくしていたが、大友義鎮や有馬晴信、大村純忠らとは違い、信者になることはなかった。しかしながら、キリスト教の教義を理解していなかったわけではない。むしろ、教義を深く理解した上で、自らをキリスト教がいうところの『神』になぞらえたのである」


・「信長と交友したポルトガル人宣教師のルイス・フロイスの『日本史』を読むと、フロイスの『信長を信者にしたい』という熱意がうかがえる。しかし、信長は晩年になるとフロイスの期待を裏切り、『自分は神である』と宣言、『自分を拝めば、富や長寿といったご利益がある』と豪語したという。もちろん、そんな信長をフロイスは『神を冒涜する悪魔』と糾弾している」


・「信長はフロイスと18回以上、ほかの宣教師を合わせると40回くらい接見している。しかし、その関心は宣教師から教えられるヨーロッパの政治、軍事、船舶を中心とした知識、さらにはアフリカ、インド、アジアの地勢と統治のあり方だったという。信長はフロイスと初めて会った時、矢継ぎ早に以下のような質問を連発したという。


「ポルトガルから日本に来るには、どれくらいかかるか。また、距離はどれほどか」

「南蛮(ヨーロッパ)やインドから、手紙を受け取るのか」

「布教のために、日本にとどまるつもりか」


それまでの日本人の世界認識は、唐土(中国)と天竺(インド)ぐらいだったといわれているが、当時の信長は、すでに人並み外れた認識を持っていたことになる。信長は、宣教師から贈られた地球儀を使い、彼らがどのように日本に来たかを尋ねている。そして、宣教師が先に足を運んだ国には、ポルトガルやスペインの軍隊が進攻して植民地化していることも察知している」


・「信長が宣教師から得た知識のなかで、最も重要なのは『兵器』に関することであった。当時、鉄砲は徐々に活用されるようになっていたが、より重視したのが信長だ。武田勝頼軍と戦った長篠の合戦では、1000挺とも3000挺ともいわれる鉄砲を動員していることからも、それがわかる」


・「さらに、大砲がある。宣教師が義鎮に贈った大砲をもらった信長は、当時の最先端の兵器に並々ならぬ関心を寄せ、さっそく大砲の製造に力を入れた。宣教師から伝えられた大砲は、ヨーロッパの軍船が搭載していたもので、「仏郎機(フランキ)」と呼ばれたものである。ヨーロッパの軍船に関する当時の記録には、『櫓は四十余本あり、鉄砲は三十四挺が配備され、漕ぎ手は三百人。銃は銅で鋳造され、大きな銃(大砲)は千斤の重さがあり、仏郎機と名づけたり」とある」


・「★最先端の船もつくっていた信長・・・さて、琵琶湖にヨーロッパの軍船が航行していたことをご存じだろうか。信長は、岐阜城から京都に直行するために、琵琶湖に百挺の櫓を持つ巨大な高速船をつくった。これを見たフロイスは、『これはガレー船だ』と驚嘆するが、その船の構造を教えたのはフロイス自身である」


・「ガレー船とは、オール(櫓)で漕ぐ軍船で、地中海で用いられていた。帆もあるが、あくまで補助的な役割で、人力で高速を出すものだ。大航海時代で大西洋に乗り出すようになると、オールもあるが帆走に重点を置くガレアス船となり、やがて全装帆船のガレオン船となる。ポルトガル人やスペイン人が、アフリカやアジア、アメリカ大陸に行き着いたのは、このガレオン船によってである」


・「信長は、ガレオン船を大坂湾に浮かべている。本願寺に食糧を搬入する毛利水軍の火矢に敗れた信長は、鉄張り装甲の軍船を6艘つくらせているのだ。それを見たグネッキ・ソルディ・オルガンティノという宣教師は、『これらの軍船は、日本で最も大きく、ポルトガルの船に似ている。日本でこんなものがつくれたとは、驚くほかない。軍船には大砲を3門ずつ乗せているが、どこからもらったものかはわからない。豊後の大友氏が数門の小さな砲をつくった以外に、日本に大砲はないはずだ』と語っているが、前述のようにフロイスが教えていたのである」


・「フロイスは、最先端の技術を教えることで信長のご機嫌を取り、キリスト教の保護者になってほしかった。その思惑通り、信長はキリスト教と宣教師を保護し、安土城下と京都に教会堂の建設を認めている。しかし、教理を勝手に変更して、自ら神を名乗るようになる。その点だけは、フロイスの思い通りにならなかったわけだ」


・「ちなみにフロイスは、バチカンに提出するために、日本での布教の状況を報告する『日本史』を書いた後、長崎で亡くなっている。『日本史』には、日本の史料ではうかがえないような、信長の実像が鮮明に書かれている。もちろん、キリスト教とフロイスに不利になるようなことは書かれていない。(文=武田鏡村/作家、日本歴史宗教研究所所長)」・・・

オバマはあの日、寿司を出前で食っていた!

2014年06月19日
(オバマはあの日、寿司を出前で食っていた!)

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http://news.nifty.com/cs/magazine/detail/po-20140618-12808/1.htm

・タネを明かせばこんなことだったんだ?安倍ちゃんと安倍ちゃんのスタッフの大チョンボだ。オバマは【銀座  久兵衛】の寿司が好きで、出かける前に宿へ出前取って食い、安倍ちゃんの接待で【すきやばし次郎】の寿司を半分残し、宿に帰ってまた、口直しで【銀座 久兵衛】の寿司を食ったということだ。

・完全に安倍ちゃんクルーのサーベィ不足である。そして大恥をかいたのが【すきやばし次郎】である。系列店でチャイニーズの娘らとも大トラブルを起こしていたのも、マイナスイメージである。

・これで、これからの政界の寿司接待は、悪いけんど【銀座 久兵衛】で決まりのようだな?ニフティニュースから、(PRESIDENT Online )の記事で、「なぜオバマ大統領は、寿司を半分残したか」の真相が分かった話。

・「【なぜオバマ大統領は、寿司を半分残したか】(PRESIDENT Online ) 2014年6月18日(水)配信」(写真は時事通信から)

・「■次郎の前にも後にも久兵衛の寿司を注文・・・2014年4月23日、来日したオバマ大統領は安倍首相と非公式夕食会の会場に『すきやばし次郎』を選んだ。ところがオバマ大統領は、次郎の寿司を半分も残したという。さらには夕食会の前にオバマ大統領が、寿司の出前をライバルの『銀座 久兵衛』に頼んだという情報を掴んだ。事実を確かめるべく久兵衛の主人、今田洋輔氏に突撃取材を敢行した」

――まず大統領側から注文を受けたというのは事実でしょうか。

【今田】寿司の出前を頼まれたのは事実です。私どもとしては、いつも通り、お客様から伺ったご注文を真心込めてお届けしたまでです。

――オバマ大統領が夕食で寿司を半分残したということですが、事前に出前を取っていたことが原因だと思われますか。

【今田】それは私にはお答えできません。注文された寿司を食べられたのであれば、半分残されるのはしょうがないかもしれません。

――出前に対して、大統領側から感想などありませんでしたか。

【今田】食べていただいてどうお思いになったかはわかりませんが、翌日にも久兵衛に注文をいただいたことは事実です。お寿司がお好きなんでしょうね。

――ということは、久兵衛の寿司をかなり気に入ったということでしょうか。

【今田】そうであればうれしいですね。

――今回の夕食会はすきやばし次郎が選ばれましたが、以前、クリントン元大統領と宮澤喜一元首相の会談では久兵衛が会場でした。

【今田】実は、今回の夕食会に関して、うちにも打診がありましたが実現しませんでした。警備上や近隣のお店にご迷惑をかけなくて済むという理由から、久兵衛には世界の首脳がいらっしゃいます。中でもクリントンさんと宮澤さんのご会食はよく覚えています。宮澤さんは『寿司会談なんて初めてだ』と笑いながらおっしゃっていた。宮澤さんが流暢に英語で話されていて、なごやかな雰囲気でしたね。

――久兵衛は大物政治家が利用しているというイメージがあります。

【今田】うちはもともと宏池会のご利用が多かったんです。いわゆる吉田学校、吉田茂をはじめとして、池田勇人、佐藤栄作、大平正芳、宮澤喜一、そういった方々にご愛顧をたまわりました。

――外国の方にとっても、寿司を食べることが一般的になってきていますね。

【今田】そう思います。寿司が海外の方にも受け入れられている理由はいくつもあるでしょう。例えば40年以上前からアメリカでは国を挙げて健康に力を入れています。FDA(アメリカ食品医薬品局)が出した健康のための食生活指針が、伝統的な和食と非常に似ているという話もあります。日本でも魚介類に含まれるDHA、EPAが体にいいなどとブームになりました。だけどそれ以上に、特に日本で寿司を食べた外国人の方が驚くのは、寿司屋のおもてなしの心ではないでしょうか。カウンター越しに対面した状態で、最初から最後まで、料理人が自分のために料理をつくってくれる。「今日はどこどこからこんなものが入ってますよ」「じゃあそれをいただこう」。日本にいると普通の会話かもしれませんが、海外の方からすれば驚くでしょうね。

――おもてなしという点で久兵衛とすきやばし次郎では違いはありますか?

【今田】うちは徹底的にお客様中心主義です。ちょっと高級な店へ行くと常連ばかりが特別扱いを受けるようなところもありますが、うちの場合は真逆。 常連さんも一見さんも分け隔てなくおもてなしします。私が直接体験したわけではないのですが、うちの常連さんが次郎さんに行くと違和感を覚えることがあるらしい。

「好きなものが食べられなかった」「一方的に高圧的に寿司を出された」「酒を飲ませてもらえなかった」なんて聞いたことがあります。だけどそれはスタイルの違いかなと思いますね。次郎さんのスタイルがしっくりくるお客様もきっといらっしゃるのでしょう。値段や店内の雰囲気、シャリの具合やネタの鮮度、職人の腕、そしておもてなし。そういったすべてが寿司のうまさを決めると思っています。これからも妥協せずにうまい寿司をご提供していきたいですね。(唐仁原俊博=取材・構成 奥谷 仁=撮影 時事通信フォト=写真)

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                                                                  http://speakingbaseball.mlblogs.com/

何が[引越しソフト]なもんか?:Win7での初のブログ

2014年04月05日
(何が[引越しソフト]なもんか?:Win7での初のブログ)

・住人が頼んでもいないのに、定期的に業者に金をばら撒く必要が有ると見えて、私の住まいのUR都市機構はやたら[外壁工事]に熱心だ。14階建ての建物をスッポリ覆い込んで、朝は8時半からガリガリやっている。不思議なのは昼になると汐が退いたように作業員が居なくなる。まるで夜更かしの私の、朝寝の妨害をしているだけのようだ。

・そんなこんなで頭がボサッとしていたら、日にちを1日間違えていた。今日は未だ4日だとボケをかましていたら5日の土曜ではないか?マイクロソフトがWinXPを突き放す日はもう、目前だ。しっかしま、こんなことも有ろうかと、私はチャッカリ[引越しソフト]を買い込んで用意していた。<でもなぁ、この手のソフトで上手く行った試しも無かったし>と、(未だにカギ括弧が捕まえられないんです)日も押していることもあって本日、取り組んだ次第。

・両膝を痛めている身にとって、床の上と机の上への立ったり座ったりは大変な作業である。おまけに長いこと使わなかったCDスライダーが、ガグガグ音がしているだけで出てこない!外付けを探したら、キチンとコードと共に仕舞われていたのはMD機が2台。肝心のCD機はAC電源コードが無い!焦って探し回った結果、プリンタのケーブルが何故かピッタリでホッとする。

・で話はここから。手順どおりWinXPからWin7をケーブルで繋ぎ、快適な[お引越し]が完了!先般は[格納しておいたメールデータが読める!]というソフトを買って、1行も読めなかったのだが、これはこれは、何という快適な!感謝感激雨霰!だった。

・ところがどっこい、そうはイカのキンΩマだったようで、ハテ?何を<引越ししてくれたんだろ?>と狐につままれた思い。1.膨大なメールアドレスの引越しも、2.溜め込んだマイピクチャも何も引越しされていない。結局明日の日曜日、未だマイクロソフトに守られているWinXPマシンから、1.メアドはEXCELにエクスポートしてから、2.マイピクチャはそのまま外付けUSBメモリに手作業で移し変えねばならん!

・それにしてもWin7、顧客のほうをまるで向いてなくて、ハッカーの方ばかり向いて作ったOSではなかろうか?WinXPに比べて、使いづらさは幾層倍になっているが、便利になったなどの実感はまるで沸いて来ない。メール機能などはガタガタの印象である。明日は日曜だから、7日の月曜に、@niftyに電話を入れて(これがまた、待たされるんだぁ!)、マイクロソフトがやたら煩く規制していることに質問してみないとイケン!

・てなことで、散々な目の、WinXPからWin7への移行1日目でした。

10月の演歌巷談:【赤いグラス】

2013年10月04日
(10月の演歌巷談:【赤いグラス】)

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・秋風が立つと、今はもう遠い遙かな横浜元町の【クリフサイド】が想われる。日本の夏が命がけの猛暑と化し、しかも亜熱帯の国みたく1年のド真ん中に長く居座ることとなり、日本人の感性が育まれて来た〔春〕と〔秋〕は、確実に1ヶ月ずつ短くなったようである。特に「そこはかとなく」人恋しい〔秋〕が短くなったことは、この歳になっても淋しいものだ。

・その【クリフサイド】は、1946年(昭和21年)の開業以来67年間、代官坂を胸ときめかせて登った人々の想い出が生き続ける伝説のダンスホールである。中2階のシルエットが美しく、今も「カラオケの背景」によく使われている。その画像を懐かしんでネットで探していたら、自然に頭を過(よ)ぎったのが、この【赤いグラス】だ。デュエットの定番として半世紀近く唄い続けられている、〔アイ・ジョージと志摩ちなみ〕の懐かしい歌である。

・これは、敢えて薀蓄を傾ける必要の無いほど人口に膾炙(かいしゃ)した名曲なので、今回はちょっと『あの人は今』風に歌手のその後を追いかけてみよう。先ずはアイ・ジョージである。

・【硝子のジョニー】でデビューしているが、元は〔トリオ・ロス・パンチョス〕も認めたラテンの達者で、【ラ・マラゲーニア】【ク・ク・ル・ク・ク・パロマ】【ベサメ・ムーチョ】【キサス・キサス・キサス】などをヒットさせた。中でも【ある恋の物語】は、多くの好事家が「最高の歌唱!」と認めている。ただ興行に絡む金銭トラブルが多く、「所払い」のカタチで、今は米国に居るらしい。

・このデュエットを巧みに唄っている志摩ちなみは、この一曲だけでネット上にも語られていない。アイ・ジョージが日本から消えた為の、最大の被害者と言って良い。

・石原裕次郎と【銀座の恋の物語】をデュエットした牧村旬子(みつこ、後にじゅんこ)は今、ちょっと弘田三枝子風の顔になってジャズを唄っているとか。もうひとつ、裕次郎ソングとしてはB級ヒットだったが、私の好きな【銀の指輪】をデュエットした愛まち子は、その後女優としても活躍したが、今は幸せな人妻と訊く。

・みんな「夫々の理由(わけ)夫々の秋」である。皆様、今は貴重となった「日本の秋」を、この歌で・・・JASRACさんに大目に見て戴いて、3番だけを。【赤いグラス】1965年(昭和40年)詞:門井八郎、曲:牧野 昭一、唄:アイ・ジョージと志摩ちなみ

「♪(男)帰らぬあの日よ 今宵再び 
赤いグラスに
(女) 花は咲いて 散っても 想い出は
赤いグラスに くちづけて
(男女) いつも いつも いつも」・・・

お蔭様で、50万アクセス達成!

2013年08月14日
(お蔭様で、50万アクセス達成!)

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・ダブル高気圧とやらで、8月24日(土)までは猛暑続きとか?運動禁止にすべきなのに、夏の甲子園は真っ盛りだし、この分ではあと11日間で命を落とす人も多いだろうなぁ?野垂れ死にしないように、コチトラも気を付けんといかん!

・ところで表題=「お蔭様で、50万アクセス達成!」である。それまでに、今は無くなってしまったが、【プロチュアサイト】で3年近く、ブロガーとしての勘どころは磨かせて戴いている。

・【ココログサイト】で、無事50万アクセスを達成できたのは、勿論読者の皆様のお蔭では有るが、トレーニングして戴いたのは【プロチュアサイト】である。併せて御礼を申し上げたい。有難うございました!

・現実に、「夢?」と思った50万アクセスをクリアしてみると、ムクムクと「100万アクセス」への夢が拡がる。3年4ヶ月での50万アクセス達成なら、順当に行けばあと4年有れば100万アクセス達成なのか?私は未だ75歳、「爺婆は早く死ね!」の若い方々には申し訳無いが、社会的知識も文法も、さして衰えているとは思えない。

・1.75歳で、2.100万アクセス達成!の決意を、これまで支えて下さった読者の皆様への御礼と、決意表明にしたい!【ココログスタッフ】の方々、今後共どうぞ宜しくお願い致します。頑張ります!

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