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【5がん6バトル</strong>を闘って】:(1)幻覚の世界

【5がん6バトルを闘って】:(1)幻覚の世界
(2020年02月12日入院・14日開腹肝臓切除手術・予後療養・22日退院)


・ようやく今回の『5がん6バトル』と向き合って記録に残せる気概が湧いて来た。麻酔が強烈だったのか輸血が大量だったのか、「私であって私でない」ような予後が続いていた。頼みの手書き闘病ノートを捲ってみたが、まるで『乱数表』のようで、読み進めるだに立ち眩みがした。


・思えば【愛知県がんセンター】からの転院先の【大阪市立大学病院】の初診外来は12月16日だった。それから約2か月、新しい主治医は迷いに迷った。「結局愛知県は、“どうされよう”としていたのですかねぇ?」「やろうとする手は全部打たれている。しかも今は残骸です。私らにも考えるチャンスを戴けませんか?」


・肝細胞がんに栄養(血液)をストップする『塞栓法』は、20年前に『肝動注法』と共に既にやられている。今回のがんの位置は最悪で、肝臓内の血管の脇で、一部はもう「咥え込まれて」いる。『ラジオ波焼灼法』も『放射線』も、血管が沸騰するので使えない。要は「“20年間も生き延びたスレッカラシのがん患者”を、大阪が受けてしまった」図式なのだ。


・それでも大阪市立大学病院は、一縷の望みを賭けて日本最新(6番目)の【大阪重粒子センター】に繋いでくれた。胸躍らせて私は奔ったが、「直ぐ近くに胃が在り、胃に穴をあけるので使えない」という絶望的な結論だった。


・さぁ大阪市立大学病院は、「もう打つ手がありません」となった。「このまま何もせず、余生を楽しまれたら?」とか「一応お渡ししておきます」と、『分子標的治療薬(飲む抗がん剤とも言われている)』のパンフも渡された。


・一番確実な策は、『がんの在る肝臓の小島=1/3』を切除することである。しっかしま、「私の体半分は酒」と豪語して来た私の肝臓は、既に『肝硬変』が進んで、お元気な方々に比べたら〔70%〕弱しか機能していないらしい。肝臓お得意の『蘇生機能』も、私の寿命の間には期待出来そうにない。私は昨年秋からの『禁酒』では追っ付かない重篤患者だったのだ。


・ならば「4cm大の肝細胞がん」に沿って、『肝臓の20%まで』を切除するしかない。『肝不全に陥るギリギリの数値』である。〔竹村茂一主治医チーム〕の、正に“ゴッドハンド”に私の命を委ねるしかない。竹村主治医が、オペ前夜にいみじくも言われた「『救命手術』である」「通常のオペ中のショック死は1%とされるが、今回は5%。5倍の意味ではなく、『命懸け』だと腹を括って欲しい」は『主治医の決意表明』でもあったのだろう。


・私は「国家試験合格の若いドクターのタマゴ」たち(大阪市立大学医学部・医学生)に『公開手術』されることも、晴れ晴れとした想いで承諾した。


・予定では2020年02月14日(金)朝9時からのオペで慌ただしかったが、『膵臓オペ急患』の方が朝一に割り込んで、私は〔午後1時から〕となった。一昨年10月に逝った私の住処の階下のバーチャン(82歳)を、遠方から私と一緒に毎日のように病院やホームに見舞い、最後は火葬場まで添って送ってくれた〔孝子さん(私と同い年)〕が、その優しさから『私の入院保証人』になってくださったので、今回の洗濯や乾燥など、身の回りのご無理をお願いした。


・シャワーを浴びて髪も洗ってサッパリして出て来ると、談話室で孝子さんの笑顔。「上田さん(私の住処近郊の地主さん)もオペ中には来てくださる」とのこと。2000年に東京出張中の木全常務(当時)に、『両国ライオン堂』で購入し送って貰った“勝ち縁起”のガーゼ裏地の浴衣(身長・体重を言ったら、当時は「あ、三段目くらいですね」とご主人に言われたそうだが、今は序二段ほどか)に片手松葉杖。看護師さんと孝子さんと3人で、歩いてベッド専用エレベータで4階へ。オペ階は、病院というより工場の感じ。3号室へ。診察券やらベッドサイド金庫のキーやら預けて、孝子さん退場。


・竹村ドクターの顔も確認出来ない、数も数えないまま、急速に奈落の底へ。起こされたら5時間が経過していた。「竹村先生のお顔が見えないので不安ですが」と大きな声を上げると、私の右手から「居ますよ!」と小さく右手を振る優しい目のマスク顔が!「ありがとうございました!」と礼を言ったらもう目が回っている。


・見かけだけは立派なHCU室に入る。看護師は「患者4人に対して1人配置」だそうだが、建物の設計ミスだな?エアコンが足元は死んでいるように冷たく、胸から上だけ汗ばむように暑い。ベテランのナースを呼んだら、「ベッドの位置を四方八方変えてみたけどダメでした。お布団を増やしてみてください」・・・愛知県がんセンターでは経験しなかったが、並べて小柄な大阪人向けなのかベッドが小さい。頭から足先までイッパイイッパイで、「オイオイ、棺桶でももちっと大きかろうが?」


・約束通り上田さんと孝子さんが見舞ってくださる。エアコンの不満、ベッドの不満は沈黙して、ただ元気なこととご足労を労う。お二方、安心して帰ってくださる。ありがとうございました。


・エアコンは早々に諦めた。布団も1枚は足元に、2枚は掛布団に。ところが尻の筋肉が「鉄の折れ曲がり部分」にキッチリ嵌っているのが分かる。上にも下にも行けない。マットレスが私の体重(今はダイエットして88kgだが)を支えきれず、尻の筋肉がベッドのメカ部分を感じてしまっているのだ。面倒げなナースに、それでもバスタオル2つ折りを3枚作って、尻の下に入れて貰う、(これは翌日、男性看護師により枕カバーの中に納まるのだが)


・私は眠剤が無いと一睡も出来ない。2010年に階下の住民トラブル(=妖怪床叩き)で不眠症になってからだ。HCUの2日間は当然『要観察』だから眠剤は無い。だから私は、麻酔が覚めた2月14日(金)午後6時から、2月15日(土)の歩行訓練の丸1日、2月16日(日)昼過ぎに一般病棟に戻るまで40時間以上、一睡もせずに『幻覚の世界』を揺蕩(たゆた)うのだ。


・先ずは満員電車のように、先に逝った先輩・友垣らが現れた。霊の世界では鬼籍の人は無声らしいが、幻覚の世界だからだろうか、その人の生前の声そのままに会話が出来る。〔紋太センパイ〕は歌まで聞かせてくださったが、〔石出御大〕はニコニコしてだけだった。ただ「いつ来るんだ?慌てなくてもエエゾ」の声音は、あの頃のナマのままだった。


・垣師匠は『脳梗塞』を患われる前の、「私と空中戦を演じていた」速射砲のままだった。ピュー1ピュー!と左右の動きも軽快だった。あんまり声が大きいので、「ここはHCUです。もう少し静かに!」と私が窘めるほど、皆さんお元気で明るかった。バーチャンやオバサンらも賑やかだった。ただ小4で憧れた〔丹羽友子先生〕には逢えなかった。きっとまだお元気に此岸(しがん)でお過ごしなのだろう。


・何度目かの『尻筋肉の激痛』のあと、誰も居なくなった。ただ雨もよいの空の下を、大柄なバーチャンが独り歩いてくる。「あ、カァちゃんだ!」と気付くと、50mほど先に立って私を見つめている。そして両手で、ワンピースの下腹部をバシバシ叩いている。


・湯のような熱い涙が込みあがった。「苦しかったら、胎(はら)の中に戻れ。今度はがんに罹らぬ体に産みなおしてやるからに!」・・・「カァちゃん、ごめんな。がんは自業自得で、兄貴ら2人は元気じゃないか!カァちゃんのせいじゃないよ、早うトゥちゃんのとこへ帰ってあげて。大丈夫だよ、大丈夫」・・・泣いて少しコトリと眠ったか?


・あとは天井や壁に、〔葛飾北斎〕風の『江戸町人遊戯画』や、『現代政治風刺画』のオンパレードだ。幻覚の世界だけだが、「私は未だ未だおもしろい風刺画が描ける!」と変な自信が沸いたものだ。こりゃ竹村茂一先生の予想外れになるようだが、是非『黄金の80代前半』をモノにしなければならない。


・夜中にベテランナースが現れて、「サイドに枕を1個入れましょう。動けば痛いでしょうが、右下・左下と、体重移動は大切です」とアドバイスをくれた。コトリ・コトリと、数分単位でも眠りが取れているようだ。


・私は今思っている。<バスタオル2枚>を縫い合わせる。それを<4枚重ねて、刺し子縫い>して、枕カバーのようなカバーを2枚折りして収納する。近所の『前田縫工所』の大将に特注しようと。あの「ベッド地獄」は勘弁だが、さりとて自主防衛は自分次第だ。考えよう!考えよう!


・かくて【5がん6バトルを闘って】:(1)幻覚の世界・・・第一段!

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