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(歴史に消えたうた 唱歌、童謡の真実 (14)母なる故郷『赤とんぼ』)

2019年10月09日
(歴史に消えたうた 唱歌、童謡の真実 (14)母なる故郷『赤とんぼ』)


https://special.sankei.com/f/column/article/20191009/0001.html


・先ずは日本人の魂を「表現」してくれた詩人の〔三木露風〕〔北原白秋〕、そして作曲家の〔山田耕筰〕の名を挙げるべきだろう。彼らの「亡き母を慕う日本の童謡」を口ずさんでから、記事本文をお読み戴きたい。


(1)赤とんぼ
詞・三木露風 曲・山田耕筰


「夕焼け小焼けの 赤とんぼ
負われて見たのは いつの日か

山の畑の 桑の実を
小籠につんだは まぼろしか

十五で姐やは 嫁にゆき
お里のたよりも たえはてた

夕焼け小焼けの 赤とんぼ
とまっているよ 竿の先」


(2)この道
詞・北原白秋 曲・山田耕筰


「この道はいつかきた道 
ああ そうだよ あかしやの花が咲いてる

あの丘はいつか見た丘
ああ そうだよ ほら白い時計台だよ

この道はいつかきた道 
ああ そうだよ お母さまと馬車で行ったよ

あの雲もいつか見た雲 
ああ そうだよ 山査子の枝も垂れてる」


・産経スペシャル・[歴史に消えたうた 唱歌、童謡の真実](14) から、記事を以下。


・「【[歴史に消えたうた 唱歌、童謡の真実](14)母なる故郷『赤とんぼ』】産経スペシャル 2019.10.9」


◆里帰り日本人妻も


・「約9万3千人の在日コリアン、日本人配偶者・子が参加した『北朝鮮への帰国事業』の第1船が、新潟港を出発してから今年12月で60年になる。『地上の楽園』『教育費も医療費も全部タダ』などという、〈デタラメの宣伝文句〉を信じて海を渡った人を待っていたのは真逆の“地獄”だった」


・「独裁者一族による圧政下で監視・密告におびえる日々。ひどい食料・物不足に苦しみ、日本からの帰国者というだけで差別された。デッチ上げの罪を着せられて政治犯収容所へ送られた人も数え切れない」


・「第1船から40年近くたった平成9年、日本人妻の里帰りが初めて実現し、15人が故郷の土を踏む。その歓迎会で彼女ら全員が手をつなぎ、懐かしさいっぱいに歌った童謡のひとつが『赤とんぼ』(三木露風(ろふう)作詞、山田耕筰(こうさく)作曲)だった。


・「北朝鮮で日本語を使うことはできない。窓を閉め切った部屋で、ひそかに日本人妻だけが集まって和食をつくり、日本語で語り合い、日本の歌を小さな声で合唱する…苦しい日々の生活の中で、それが、日本人妻たちの、せめてもの楽しみだったのである」


・「来年の東京五輪に向けて北朝鮮側の応援団に参加する形で、帰国事業参加者の里帰りが検討されていると聞く。また故郷の地で歌う彼女たちの『赤とんぼ』をぜひ聞きたいものだ」


◆甘酸っぱい思い出


・「『赤とんぼ』は、あまたある童謡の中で飛び切り人気が高い。幼き日の、ちょっぴり切なくて甘酸っぱい思い出。その背景に浮かぶ、日本の里の風景。哀愁たっぷりのメロディー…おそらく、日本人なら誰でもが口ずさめる歌のひとつ。皆それぞれが、懐かしい母や故郷への思いを歌詞に重ねて胸を熱くする」


・「現在の音楽教科書の扱いを見てみたい。『赤とんぼ』は、文部科学省の学習指導要領が定める歌唱共通教材(授業で扱うべき歌)としては、中学校の7曲のひとつだが、小学校の音楽教科書でも2社(教育芸術社、教育出版)ともが5年生用に掲載している」


・「ちなみに、昭和33(1958)年、文部省(当時)が初めて、小学校の歌唱共通教材を定めたとき、4年生用として指定されたのは同名の別曲・文部省唱歌の『赤とんぼ(~秋の水、澄みきった流れの上を赤とんぼ…)』だ。その後しばらく、こちらの歌が教科書に掲載されていた」


・「露風・耕筰の『赤とんぼ』に話を戻そう。現在の教科書では、1~4番までの歌詞がフルに掲載されている。以前は、そうじゃなかった。終戦後の昭和22年、連合国軍総司令部(GHQ)の方針を受けて、文部省が内容を一新してつくった音楽教科書の5年生用(「五年生の音楽」)に収録されたときに~十五で姐(ねえ)やは嫁に行き…の3番が丸々カットされている」


・「戦後の新しい民法で、女性の結婚が認められるのは『16歳から』となったのに15で嫁に行くのはおかしい、『姐や』という言葉もよくない…と問題視する向きがあったという話がある。そうならば“石頭(いしあたま)”にもほどがある」


・『赤とんぼ』の歌詞は、露風が幼き日の思い出を故郷・龍野(たつの)(当時)の光景に重ねて綴(つづ)ったものだ。親との縁が薄かった(※幼時に両親が離婚)露風は、去っていった母への思慕を募らせる。母親代わりに世話をしてくれたのが子守の少女だった。彼女に背負われながら見た、夕焼けをバックに飛ぶ赤とんぼの姿。やがて子守の少女が故郷へ帰ったことを聞く。嫁に行ったという」


・「長じて北海道へ行った露風は、秋の日の夕暮れ、竿(さお)の先にとまっている赤とんぼの姿を見て幼き日を思い出す。『赤蜻蛉(とんぼ)』は大正10(1921)年、雑誌『樫の實(み)』に発表された(※歌詞は現在と一部異なる)。2番の歌詞に出てくる『山の畑』は露風の実家近くにあった畑をイメージしている。歌詞を勝手にカットすると、露風の思いも物語も断ち切られてしまう」


◆「白露」との出会い


・「東京音楽学校(現東京芸大)からドイツへ留学した〔山田耕筰〕が日本の歌曲や童謡をつくることになったのは、主に2人の詩人との出会いが大きい。先に露風、続いて『この道』『待ちぼうけ』などでコンビを組んだ〔北原白秋(はくしゅう)〕(1885~1942年)である」


・「『白露時代』と呼ばれるほど一時代を築き、詩壇の頂点にいた2人の詩人は性格も作風も違う。耕筰は『白秋と露風のこと』(昭和32年『音楽の友』)と題した文で2人のことを書き残している。


〈(ドイツ留学中)…日本の作曲家として、日本の歌曲を生みたいという意欲は決して私の胸から消えてはいなかった…私は露風の詩集『廃園』を見出(みいだ)したのである。私ははじめて、詩としての価値ある日本の詩にぶつかった…露風の詩に酔っては次々と作曲した〉


大正8(1919)年、耕筰は大阪の三木楽器(開成館)から最初の歌曲集『山田耕筰歌曲集 露風の巻』を出している」


・「一方の白秋のくだりはこうだ。


〈1920(大正9)年、北米から帰朝して私は新しい詩友を得た。それが、北原白秋である。私は白秋の詩から露風の詩とは全く違った感激を覚えた…白秋の詩は極めて郷土的である》。そして、2人との出会いによって、日本の芸術歌曲(リート)が誕生したのだ〉


と。


・「平成の時代になって韓国の研究者が、露風・耕筰によるいくつかの歌を『日本統治時代の朝鮮オリジナルの歌ではないか?』と提起したことがあった。昭和7(1932)年、京城師範の音楽教育研究会編纂(へんさん)の『初等唱歌・第三学年用』に収録された『五月雨(さみだれ)』『水車』などである。(例の《ウリジナル》だ!)


・「残念ながら(解説:「お気の毒だが」と書け!)これらは、朝鮮オリジナルではなく、大正12年にやはり、開成館から発行された唱歌集『小学生の歌』に掲載された歌だった。露風・耕筰が、この歌集のためにつくったもので、主に大阪周辺の小学校でしか使われなかったため、あまり知られていなかったらしい」


・「残っていた楽譜をもとに、それらの歌の再現コンサートを平成23年に本紙後援でやったことがある。詩も曲も90年近くたったとは思えない瑞々(みずみず)しい名曲であった。=敬称略、隔週水曜日掲載(文化部編集委員 喜多由浩)」・・・

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