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(歴史に消えたうた 唱歌、童謡の真実)

2019年10月24日
(歴史に消えたうた 唱歌、童謡の真実)


https://special.sankei.com/f/life/article/20191023/0001.html


・「ああ そうだよ お母さまと馬車で行ったよ」・・・に誰も『荷馬車』は思うまい。荷馬車だったら母は、「姉さ被り」に「野良着」「もんぺ」だろう。敗戦後の我らガキはみな、『上流階級』のイメージに胸をときめかせたものだった。【赤とんぼ】の〔三木露風〕も好きだが、〔北原白秋・山田耕筰〕の出会いは、『奇跡』と言っても良い。


・産経スペシャル・[歴史に消えたうた 唱歌、童謡の真実 (15)] から、記事を以下。


・「【歴史に消えたうた 唱歌、童謡の真実(15)『この道』 樺太から台湾 亡き母を想う歌】産経スペシャル 2019.10.23」


・「詩人の〔北原白秋(はくしゅう)〕(1885~1942年)は、大正14(1925)年8月、鉄道省(当時)主催の樺太(からふと)観光団に加わり、高麗(こま)丸で横浜港から出航した」


・「旅行は約1カ月間に及び、(南)樺太ではロシアとの国境線(北緯50度線)近くの安別から真岡(まおか)、豊原、大泊(おおどまり)…。海豹(かいひょう)島ではオットセイのハーレムも見学した。さらに、オホーツク海を南下して北海道へ渡り、島内を周遊する」


・「名曲『この道』(作曲は山田耕筰(こうさく))の詩は、このときの北海道で着想を得たとされている。南国・九州育ちの白秋に北の大地は新鮮に映っただろう。歌詞には『あかしやの花』『(札幌の)白い時計台』『さんざし(山査子)』などが盛り込まれている」


・「『この道』は、『母を想(おも)う』歌にもなった。耕筰は、白秋から渡された詩を見て、18歳のときに亡くした母に想いを寄せる。《世の誰よりも母に愛され、世の誰よりも母を思う心切(こころせつ)である。『この道』を手にした私は、いとけなかりし日を思い、あたたかい母の手にひかれて、そぞろ歩きした道を偲(しの)び、ありし日のあわい追憶に耽(ふけ)らずにはおられなかった…》(作品解説、日本交響楽協会出版部)」


・「同じ耕筰の文によれば、白秋は、この詩を渡すとき《これは『からたちの花』の妹です。『からたちの花』にもました美しい綾衣(あやごろも)を織り与えてください》と願いを伝えたという」


・「『からたちの花』も白秋・耕筰による名曲だ。耕筰は白秋の思いに、工員として働きながら寄宿生活を送った自身の少年時代の思い出を重ねて美しいメロディーを紡ぎ出す。耕筰の作品解説を見てみよう」


・「《私のいた工場は、広い畑の中に建てられていました…その一隅は、からたちで囲まれていました。働きのわずかなひまを盗んで、私はどれほどこのからたちの垣根へと走ったことでしょう…あの白い花 青いとげ 黄金の果実…いま私は白秋氏の詩のうちに、私の幼時を見つめ、その凝視の底から、この一曲を唱(うた)い出たのであります》(セノオ音楽出版)」


・「2人の思いを乗せて名曲に仕上げられた『この道』『からたちの花』、そして前回(9日付)で取り上げた『赤とんぼ(作詞は三木露風(ろふう))』は、昭和2年発行の【山田耕作童謡百曲集】(日本交響楽協会出版部)に収められた」


■校歌は「民謡」だ


・「ともに酒好きで、『夫婦のよう』というほど息が合った白秋・耕筰は、コンビで多くの学校の校歌も作っている。〔同志社〕、〔関西(かんせい)学院〕などの大学から小学校まで。内地だけでなく、満州(現中国東北部)や台湾の学校まで、範囲も広い」


・「耕筰の養女、〔山田浩子・日本楽劇協会理事長〕によれば、『(耕筰は)校歌をつくることをとても楽しんでいた。土地の自然や校風が織り込まれる校歌は『民謡と同じなんだよ』と話していた』という」


・「樺太にあった〔豊原尋常高等小学校校歌〕は昭和11(1936)年の作だ。歌詞で白秋は、大正14年の樺太旅行で見聞した北の島の風土とともに、『誰か拓(ひら)きし』『雪に冴(さ)えたつ父祖の嶋(しま)』と、日本人の先人の思いを織り込んだ」


・「(南)樺太は、日露戦争に勝利した日本がロシアから獲得した“魚の尾”のような細長い島。白秋が綴(つづ)ったようにロシアが流刑地としか見ていなかった酷寒の地を開拓し、鉄道や道路を敷設して、炭鉱や水産加工業を興し、学校や住宅を建てたのは日本人である」

・「終戦前の日本人人口は40万人強。中立条約を一方的に破って侵攻してきた『ソ連(当時)軍』は、昭和20年8月15日を過ぎても戦闘行為を止めず、激しい地上戦によって多くの日本人が犠牲になったことは、ほとんど知られていない。終戦後はソ連軍政下で、厳しい監視・密告におびえる生活を余儀なくされた。あの北朝鮮の日本人妻と同じである」


・「昭和16年に同小に入学した(※同年から国民学校に名称変更)〔小林恒夫〕(84)は『校歌は、入学式や卒業式に歌ったと思います。5年生以降は、ソ連の軍政下になり、こうした行事もなくなってしまいました』と振り返る」


■憧れの「華麗島」


・「白秋は、昭和9年には台湾を訪問、1カ月以上かけて全島を一周する。49歳の白秋は台湾を『華麗島』と呼び、かねて訪問を熱望していたらしい。台北に着いたときに報道陣から印象を聞かれた白秋は『九州ですよ』と答えている。故郷と同じ南国の親しみがあったのかもしれない」


・「白秋は旅行に招いた台湾総督府文教局の依頼で、いくつかの詩を書く。後に台湾の日本人少年のテーマソング的な存在となった『台湾少年行進歌』や『台湾青年の歌』(ともに作曲は山田耕筰)などである」


・「先住民が多い南部の三(山)地門郷も訪問し、童謡『サンテイモン』をつくった。南国のヤシ科植物『ビンロウ』などを盛り込んだ詩はその年の12月に発行された児童雑誌『コドモノクニ』に掲載。その詩に『春よこい』などで知られる〔弘田龍太郎〕(1892~1952年)が曲をつけ、台湾語にも翻訳される」


・「台湾総督府は、満州や日本統治下の朝鮮と同じく、独自の唱歌集を作成している。満州と違うのは、台湾人児童向け(満州は日本人向け)だったことだ。歌詞には、台湾の自然や動植物、名所旧跡、歴史上の偉人が盛り込まれ、台湾人児童に愛された」


・「第2期の『公学校唱歌』(台湾総督府著、昭和9~10年)4年生用には、白秋が詩を書いた『南の風(原題の詩は「南の風に」)』が収録されている。作曲は、『揺籃(ゆりかご)のうた』『夕焼小焼』の〔草川信(しん)〕(1893~1948年)だ」


・「歌詞に柑橘(かんきつ)類の『朱欒(ざぼん)』が出てくる。白秋は、母の郷里である熊本の朱欒を書いたというが、台湾の子供たちは、地元の朱欒と思って愛唱した。同じ南国の九州と台湾には相通じる景色と思いがあったのだろう。=敬称略、隔週水曜日掲載(文化部編集委員 喜多由浩)」・・・


◇【この道】作詞・北原白秋


 1 この道は いつか来た道 ああ そうだよ あかしやの花がさいている

 2 あのおかは いつか見たおか ああ そうだよ ほら 白い時計台だよ

 3 この道は いつか来た道 ああ そうだよ お母さまと馬車で行ったよ

 4 あの雲も いつか見た雲 ああ そうだよ さんざしの枝もたれてる


◇【からたちの花】作詞・北原白秋


 1 からたちの花が咲いたよ 白い白い 花が咲いたよ

 2 からたちのとげはいたいよ 青い青い 針のとげだよ

 3 からたちは畑の垣根よ いつもいつも とおる道だよ

 4 からたちも秋はみのるよ まろいまろい 金のたまだよ

 5 からたちのそばで泣いたよ みんなみんな やさしかったよ

 6 からたちの花が咲いたよ 白い白い 花が咲いたよ


《北原白秋と山田耕筰》

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