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日本を恨んで、チャイナには何も言えないサウスコリア

2017年12月27日
(日本を恨んで、チャイナには何も言えないサウスコリア)


http://www.sankei.com/west/news/171225/wst1712250084-n1.html


・これは(2)だから、(1)が有ったのだろう。この記事も前半部がサウスコリア在住時で、


「35年間支配した日本を恨んで、千年以上朝鮮民族にもっとひどいことをした中国には何も言えない」と独り言のようにつぶやいたというコリアンの話と、


「韓国に住んでいた3年少々の間、慰安婦や徴用工問題など1度も韓国人の口から聞くことはなかった」という投稿者本人の印象


から、サウスコリアの今の異常を訴える記事のように扱われているが、ご本人=新田多美子(あらた・たみこ)氏(大分県津久見市生まれ・72歳)は1983年に米ボストンに移住し、今はアメリカでは認可されているがん治療薬で闘病中の〔がん患者〕である。


・ご本人も「日本ではまだ認可されていない最新のがん治療の様子も紹介したい」と記事を括っておられるので、【織伊友作のがん患者への応援歌】ブログにも転載しておこう。おそらくこれからは、新田多美子氏の記事は〔がん闘病〕に特化されて行くのではないか。


・産経WEST・[ボストンから一言] から、記事を以下。


・「【(2)韓国の本音…『日本を恨んで、中国には何も言えない』】産経WEST・[ボストンから一言] 2017.12.27 09:00更新」


・「私たち家族は主人の仕事で1977年から3年間、韓国の釜山に住んでいた。当時の韓国は、食堂で出されるご飯は麦飯のみと定められ、砂糖、塩すら配給制だったが、闇市に行けば何でも手に入った」


・「女性に人気があったのは日本の化粧品で、韓国人と親しくなると、よく手に入れてほしいと頼まれた。日本統治時代の面影があちこちに残り、家屋や街並みは昔の日本に戻ったようだった」


・「■『北は悪』の思想・・・・北朝鮮の工作員たちが夜陰に紛れて行う活動を阻止するため、深夜の午前0時になれば、一斉にサイレンがけたたましく鳴り響き、路上には人っ子一人いなくなる」


・「酔った男たちが、サイレンの前に自宅に帰ろうとタクシーを奪い合う様子は、もう2度と見ることのできない韓国の風物だった。 北朝鮮からの攻撃に備えた訓練として、月に1度だったか灯火管制もあった。サイレン音とともに、家庭のみならず町全体から灯りと音が消え去り、墨を塗ったように真っ暗な静寂が襲ってくる」


・「再び鳴り響くサイレンで解除となり、町には一斉に灯りが戻ってくる。当時は、朝鮮戦争の体験者が多く生存し、『北朝鮮は悪』という思想が強く、市民はこうした政府の対応にも不平も言わず従っていた」


・「夕方5時には、大音響で国歌が流れ始め、全国民は、右手を胸にあて、終わるまで直立不動で立つことを義務付けられていた」


・「■デモが銃撃戦に・・・・このようなご時世に、朴正煕(パク・チョンヒ)大統領暗殺(1979年)、学生たちの民主化デモから始まった光州事件(1980年)と戒厳令が発令された緊張感は、今では想像もできない」


・「光州事件では、鎮圧にあたる兵隊たちの暴行に憤った市民たちが参加をしたことから一挙に拡大し、デモの参加者は最終的に20万人以上とも言われている」


・「銃を携えた若い兵士たちを乗せた軍のトラックのみが、戒厳令のもと静まりかえった町の大通りを続々と疾走する光景は、まるで映画の中の出来事のようだった」


・「デモ参加者は武器庫を襲撃して銃を手にし、兵隊たちとの間で銃撃戦が始まった。そして、軍による多くの学生や一般市民への弾圧が繰り広げられた」


・「■動乱の中、突撃視察・・・・光州への道は封鎖され、通信も遮断されて真実を知ることのできない国民は、『北朝鮮のスパイに扇動された暴動である』などとの喧伝を信じた。しばらくして私は、戒厳令の中でも米軍のプレートが付く車には外出許可が出たことを知った」


・「『動きが止まった釜山の町をこの目で見ておきたい』との思いに駆られ、『韓国人の自分は外出できない』と尻込みするわが家の運転手に『コネがあるから、拘束されたら迎えに行く』と叱咤(しった)激励して町に出かけた」


・「今でもまじかで見た、あの初々しさの残る若い兵たちが、市民を虐殺したとは信じられない。私は、韓国史に残る事件2つを体験したことになる」


・「■慰安婦や徴用工問題を一度も聞いたことはない・・・・当時、40代半ば以上の韓国人は日本語教育を受けていたため、私が日本人だと分かると『日本語を話せます』とうれしげに話しかけられたものだ」


・「『チャガルチ』と呼ばれる大きな市場に店を開くだけのお金がない女性たちは、道路に沿って地面に新聞紙やビニールシートを広げ、たくましく大声で客を呼び込む。私は、彼女たちと話すのが大好きだった。おばさんたちも日本語ができない若い世代からの羨望の視線を感じながら自慢げに日本語で私と話し、野菜や魚を買うといつもおまけがついてくる」


・「京都で生まれ育ったお手伝いさんが『韓国人の私が同じお金で魚2匹しかもらわんのに、日本人の奥さんが、なんで3匹なんですか!』と冗談を言ったものだ」


・「こんな思い出もある。 堂々とした体格の60歳過ぎの金さんは、柔道界で名が知られていたそうだが、私が知り合った頃は、整体師として糧を得ていた。 ある日、私を治療しながら唐突に『35年間支配した日本を恨んで、千年以上朝鮮民族にもっとひどいことをした中国には何も言えない』と独り言のようにつぶやいた」


・「今思えば、私と何十年ぶりに日本語を話しながら、統治時代の自分の人生を懐かしんでいたのではなかっただろうか。 洋酒も闇市でしか手に入らない時代、主人のもとには、同年代の韓国人の友人や軍人たちが多く集まった」


・「戦前の日本の歌謡曲や軍歌が主流で、皆から『閣下』と呼ばれていた見た目が60歳ぐらいの軍人は、日本の軍歌を見事に声高高に歌いあげていた。 『閣下』という言葉が使われていることに驚き、主人に『あの人は誰なの』とこっそり聞くと、『朴大統領と同じ日本陸軍士官学校の出身』と教えられた」


・「韓国に住んでいた3年少々の間、慰安婦や徴用工問題など1度も韓国人の口から聞くことはなかった」


 ◆(場面はアメリカに変わる)◆
 

・「2011年の5月終わりに受けた腫瘍の生体検査で、尿管ステントを留置された。検査を前にベッドに横たわる私に、真上から説明をする麻酔科医が『なにか質問は?』と最後に言うので、『先生の目の色はコンタクトレンズですか?』、『それとも本物ですか?』と聞いてしまうほどの深くきれいなブルーだったことを覚えている」


・「麻酔が効いている間、自分のいびきが気がかりだったが、心配ないといわれ、安心した。検査と処置を終えてその日の夕方に帰宅。麻酔が切れ始めると経験したことのない激痛が襲ってきた。誰かが、下半身の臓器をねじりあげているようで、痛みに強い私でも耐えきれない」


・「医者は既に帰宅した時間。病院にかけた電話は救急に回された。 『えっ。痛み止めは出されなかったのですか。すぐに取りに来なさい』と驚いたように言われても1人住まいの身、病院に行くこともできない」


・「『家に痛み止めの薬はありませんか』と聞かれ、2種類の薬名を告げると『アスピリンは出血を止めないので絶対に駄目です』と注意をされ、もう1つの薬を飲んで寝込んでしまった。


・「早朝、目が覚めると痛みも和らぎ空腹を覚え、1週間前に採ってきたワラビを料理していただいた」・・・


◆新田多美子(Tamiko Arata) 大分県津久見市生まれ。72歳。1983年に米ボストンに移住し、日本などからの留学者向けに住居の手配、生活用品の買い物、車購入と自動車保険など生活の立ち上げサービスの仕事をしている。


・現在は、がん治療を受けながら働く毎日。治療では、スイスのロッシュ社による新薬の免疫チェックポイント阻害剤「アテゾリズマブ」を使っている。日本ではまだ認可が下りていない。


・早く認可が出た米国で、実際の治療を通して知見が得られている最新治療を受けることを聞いた私の回りの日本医師たちは、口をそろえたように『幸運だ』と言う。


・日本が恋しいわけではないが、誰よりも日本を愛し誇りに思う。ボストンから見る日本や、少し変わった日常の出来事などをコラムにし、日本ではまだ認可されていない最新のがん治療の様子も紹介していきます。


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