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今、こんな本を書いています-3

2016年02月09日
(今、こんな本を書いています-3)

【5・種田山頭火の足跡・2015年5月21日(木)】

[どうしようもないわたしが歩いている]


・今日は2014年に急逝された〔青嵜 仁〕氏の祥月命日である。私の新卒入社O社の人事部長だった。私が腐っていた時も決して見逃さず、優しく気配りしてくださった方だった。後に東海支社長としての直接的ご縁も有った。「100歳のハードルは、軽く越えられる方だ」と信じていただけに、90歳での逝去は、私には愕然とした思いだった。


・私は見る機会に恵まれなかったが、早稲田剣道部の重鎮として、慶應剣道部の橋本龍太郎元首相との模範試合は、剣道界で有名だった。90歳になられても「『早稲田剣道部寒稽古』参加を楽しみにしています」というメールが、私への「エンディングメール」となってしまった。


・ただこの項で、種田山頭火の生誕から終焉までの足跡を、『山頭火句集』(村上 護編・ちくま文庫・2011年6月発行・第16冊)を拠り所にお伝えすることを、何かの因縁と〔村上 護〕氏にご承諾戴きたい。原本は山頭火研究第一人者らしく、極めて詳細であるが、勝手に簡略化してお伝えするご無礼を、〔青嵜 仁〕氏に「私が可愛がった部下だから」と、そちらの世界で〔村上 護〕氏にお伝えくださいね。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
 1882年(明治15年)12月3日、山口県防府の名家の長男として生まれる。父・竹治郎、母・フサ、正一と命名される。姉・妹・弟と長じる。


 1892年(明治25年)10歳、母・フサが自宅井戸に投身自殺。原因は父・竹治郎の女道楽説、政治運動狂奔説と様々だが、幼い山頭火にとって、その心の傷がどれほどのものだったのかは容易に想像出来る。以降、祖母・ツルに育てられる。


 1902年(明治35年)19歳、東京専門学校高等予科卒、早稲田大学文学部入学。


1904年(明治37年)21歳、神経衰弱で早稲田大学中退、帰郷。

1907年(明治40年)25歳、父・竹治郎が種田酒造場を開業、これを手伝う。

1909年(明治42年)27歳、サキノと結婚。

1910年(明治43年)28歳、長男・健誕生。(結局この子が山頭火の墓を立てる)この頃から山頭火は、無軌道な酒を呑み始める。


 1911年(明治44年)29歳、郷土文芸誌「青年」に参加。〔山頭火〕の雅号を名乗り翻訳誌発行など文学活躍を始める。(多分にニヒリズムの影響が感じられる)その後、〔田螺公〕の俳号で定型俳句の勉強を始める。1913年(大正2年)31歳、「層雲」に入選、俳号にも〔山頭火〕を使い始める。


 1916年(大正5年)35歳、「層雲」の俳句選者の一人となるも種田家破産。父・竹治郎は行方不明、一家は離散。山頭火は妻子を連れて熊本へ。古書店(後に額縁店に)「雅楽多」を開業。


 1918年(大正4年)36歳、弟が借金苦に耐え切れずに自殺。


 1919年(大正8年)37歳、行き詰まり職を求めて単身上京し、アルバイトで口に糊する。育ててくれた祖母死亡。


 1920年(大正9年)38歳、妻サキノと戸籍上は離婚。サキノは一人息子の健を育て「雅楽多」を営む。山頭火は東京市役所臨時雇として図書館勤務。


1921年(大正10年)39歳、父竹治郎死亡。山頭火は東京市正規事務員に。

1922年(大正11年)40歳、神経衰弱が嵩じて退職。東京で額縁などの行商。

1923年(大正12年)41歳、関東大震災に遭遇し熊本へ帰る。蔵の2階に仮寓。

1924年(大正13年)42歳、熊本で泥酔して電車を停め、禅寺(曹洞宗報恩寺)に入れられる。

1925年(大正14年)43歳、出家して〔耕畝(こうほ)〕と改名、郊外の味取(みとり)観音堂の堂守となる。


 ※「松はみな枝垂れて南無観世音」 の句に、山林独住の淋しさが滲む。


 1926年(大正15年)44歳、4月山林独住に飽きたのと、無頼流浪の血の騒ぎを抑え切れず、観音堂を去って一鉢一笠の行乞放浪の旅に出る。この旅は7年続くことになるが、旅の第一句・

 ※「分け入っても分け入っても青い山」 に出立の気概が感じられる。


 1928年(昭和3年)46歳、7月小豆島に渡り、共感する自由律俳句の故・尾崎法哉(享年41歳)の墓に詣でる。結核で死んだ法哉の、「咳してもひとり」に和し、

 ※「鴉啼いてわたしも一人」 を詠む。


 1930年(昭和5年)48歳、12月熊本市内の2階1室を借り、『三八九居』と名付け自炊。


 1931年(昭和6年)49歳、『三八九居』で2月、ガリ版刷り「三八九」発行。3月、第2集・第3集を発行するも、泥酔が因で拘置所へ。再び一鉢一笠の旅に出る。

 ※「うしろすがたのしぐれてゆくか」 に、その自嘲の念が現れている。


 1932年(昭和7年)50歳、行乞の旅の中、下関の川棚温泉に結庵を望む。句友の支援で木下旅館に3ヶ月近く長逗留し結庵の画策をするも失敗。同年6月、第1句集「鉢の子」刊。同年9月、句友・国森樹明らの奔走・支援で小郡町矢足に『其中庵』を結庵。同年12月、「三八九」第4集発行。


 1933年(昭和8年)51歳、1月、「三八九」第5集、2月、第6集(終集)発行。12月、第2句集「草木塔」刊。1934年(昭和9年)52歳、2月出立で福岡・広島・神戸・京都・名古屋を旅するも、木曾より飯田の山中で雪に行き泥(なず)む。


 4月、発熱・入院を経て末に『其中庵』へ戻り着く。1935年(昭和10年)53歳、2月、第3句集「山行水行」刊。8月、自殺未遂。12月、死に場所を求めて東上の旅に出立。


 1936年(昭和11年)54歳、この年山頭火は、壮大な旅をしている。旅は岡山から引き返し、広島・門司へ。2月、旅中に第4句集「雑草風景」刊。3月、門司から汽船で神戸へ。大阪・京都・伊賀上野から伊勢神宮へ。4月、鎌倉経由で東京。5月、甲州路・信濃路を歩き、更に新潟・山形・仙台を経て平泉へ。芭蕉を偲び、

 ※「ここまでを来し水飲んで去る」 を詠んでいる。福井経由で7月待末、『其中庵』へ帰る。


 1937年(昭和12年)55歳、九州地方行乞。8月、第5句集「柿の葉」刊。11月、泥酔無銭飲食で山口警察署に留置。1938年(昭和13年)56歳、3月、大分地方行乞。山口市の湯田温泉が気に入り、入り浸る。11月下旬、『其中庵』が崩れ、湯田温泉に借家して『風来居』と名付ける。


 1939年(昭和14年)57歳、1月、第6句集「孤寒」刊。3月、近畿・東海・木曾を旅する。9月、四国へ旅立ち、途中徳山で鉄鉢を捨て、

 ※「柳ちるもとの乞食になって歩く」 を詠んでいる。


10月、松山・香川・徳島・高知の霊場巡り。12月、松山市に納屋を改造して貰い住みつく。『一草庵』と名付ける。


 1940年(昭和15年)58歳、4月、句集の集大成版・「草木塔」刊。7月、最後となる第7句集「鴉」刊(「草木塔」にも収録)。10月10日夜、『一草庵』で句会。山頭火は泥酔して隣室で休息。そのまま山頭火の日頃からの望み通り、誰にも看取られずに、心臓麻痺で他界。(死亡推定・11日午前4時)


 渡満(満州国へ)していた息子の健が、急遽帰国して山頭火を葬った。墓は山頭火生誕地の山口県防府市・護国寺に有り、母フサと並んで眠っている。又戸籍上は離婚しながら、何かと山頭火を支えた妻・サキノの熊本市・安国禅寺の墓にも、山頭火の分骨墓がある。


 ※「どうしようもないわたしが歩いている」・・・

 山頭火の自虐の句の通り、「ホイトウ(乞食)じゃった」という誹(そし)りも多いが、死後75年余、益々愛される山頭火の境涯と句集である。


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