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今、こんな本を書いています-5

2016年02月11日
(今、こんな本を書いています-5)


※「教科書通り、胃の3/4を切除するか?」「放置して、1年がかりの経過観察に逃げるか?」 昭和の大作曲家〔服部良一〕氏に『胸の振り子』という傑作があるが、私の胸の振り子は1日に何百回振れるのだろう。部屋のパソコンの前に座っていても、リラックスの積もりで湯に浸かっていても、胸の振り子は左右に振れ続けている。もう初夏ってより夏の感じだが、公団裏のプロムナードを、生い茂る銀杏の葉の日陰を頼りに、片手松葉杖を頼りに散歩することにする。


 不自由な脚でも、歩を進めるのは爽快だ。胸の振り子が暫し止まってくれるような感じさえする。凄惨な「がんバトル」のことを封印し、ひたすら恋しい山頭火の優しさに思いを馳せようと思う。


 【7・山頭火の動物への優しいまなざし・2015年05月24日(日)】

 [7・1=いつもつながれてほえるほかない犬です]
 

 山頭火の句集に流れ続けているものは、「孤」であると解釈される方々も多いと思われるが、私は「慈」(いつくしみ)だと思っている。しかもその「慈しみ」は、お日様にも月にも星にも、風にも雨にも雪や霰(あられ)にも、自らの思い出にも、大きな動物から小さな昆虫にまで、遍(あまね)く森羅万象に及んでいる。


 殊に動物へのまなざしは、限りなく優しい。この項では、その中でも私の物心がつき始めた疎開先での想い出にも絡めて、先ずは動物四態を挙げておきたい。


 山頭火は海道も行くが山道が多いから、〔みのむし〕だとか〔かまきり〕だとか〔てふてふ〕だとか、昆虫の生態を実によく見ているが、吠えかかる犬にも「慈しみ」で応えている。破れ饅頭笠に黒いボロボロの法衣の出で立ちだもの、どこを通りかかっても田舎家を守る犬は必死で吼えかかったのだと思う。


 今の犬に比べ、麦残飯に味噌汁かけの三度の餌ながら昔の犬たちは律儀だった。そんな犬たちに、山頭火は立ち止まってこの句を啓上してやったのだろう。必死の犬にとっては、却って有難迷惑だったろうと噴出してしまうが。

 
 [7・2=鳴いても山羊はつながれてひとり]
 

 山頭火は人里が望める山裾に腰を下ろし、いつもの「飯だけの弁当」を使っているのだろう。想像するに季節は秋。もう夕暮れが近く秋独特の「片明かり」となって、日なたのオレンジ色と日陰の墨色が景色を際立たせている。山頭火は気付かないだろうが、私には彼が背景の「山景色」から浮き立ってクッキリ見えている。


 山頭火から、折り重なる人里の茅葺き屋根までの見通しの手前に小さな丘があり、まだ枯れやらぬ小さな緑の中に白い山羊が繋がれているのがさっきから見えている。いや、その山羊が盛んに鳴きだしたので、山頭火はその存在に気付いたのだ。


 もう人恋しくなったのだろう、山羊は秋の陽の片明かりに体の半分をオレンジに染め、「メェ~メェ~」と飼い主を呼び続けている。でも飼い主も今日の野良仕事の仕上げに忙しいのだろう、山羊は見捨てられたように鳴き続けている。「大丈夫だ、大丈夫だ。ワシがちゃんと見ててやるから」・・・きっとそんな情景なのだろう。


 [7・3=びつしより濡れて代掻く馬は叱られてばかり]
 

 田植え前に田んぼに水を入れ、田んぼの表面をツルツルに均(なら)す[代掻き]時だから季節は春の終りか夏の始めか?今ならK社やY社の農耕用小型トラクターが大活躍だが、山頭火の時代は馬か牛かを追いながら「代掻き鍬(すき)」や「代掻き橇(そり)」を使っての大作業だったのだろう。


 雨が降っていたのか。いや、雨も降っていたかも知れないが、朝からの作業に疲れた馬は自身ビッショリ汗をかいて頑張っていたのだろう。山頭火は田んぼを見下ろせる山裾の道を歩いていたが、思うように代掻きができなくて馬に当り散らしているお百姓の怒声を聞いて足を止めている。そして「叱られてばかり」の馬に、深い愛情の視線を送っているのだ。或いは思うに任せない己の人生と、汗まみれの馬とをダブらせているのだろうか。

 
 私が山陰岡山の父の生家の近郊・岡山県真庭郡久世町(現・真庭市久世町)に、母と2人の兄と疎開したのは2歳の時だったらしい。映画・【ALWAYS三丁目の夕日】に、薬師丸ひろ子演ずる「昭和の母」の独り息子が通う小学校が登場するが、その威風堂々さに気が付かれただろうか?あれこそが明治40年に落成し、私の兄2人が疎開中に通って今も国の重要文化財として名高い岡山県真庭市立【旧・遷喬(せんきょう)小学校】なのである。

 
 山陰岡山の疎開先の、仮住まい長屋の前は、狭い地道の先は、ストンと落ちていきなり田んぼだった。私より1歳上だった隣の娘・テルちゃん(29歳の旅の折、再会できた!)とその弟と、長屋の前の地道で遊んでいると、田んぼでは丁度山頭火の句のままの、「代掻き馬」がいつも叱られながら働いていた。だから私は、幼い頃から馬が汗まみれになって馬体を光らせている光景を知っている。そして山頭火のこの句は、私を瞬時に3~4歳の昔にワープさせてくれるのである。


 [7・4=牛は花野につながれておのれの円をゑがく]
 

 これは思い立っては庵から旅の足を踏み出して、花咲き乱れる野山を放浪しつつ天に諸々の想いを発しながらも、望郷の念押さえ難く、帰巣本能の赴くままやがて庵に戻ってしまう山頭火自身を自嘲して詠んだ句とも思える。


 しかしこの句と同じ場面を、山陰岡山で毎日のように見ていた私としては、花野につながれて日長一日、同じ円を描いて草を食んでいる牛に対する山頭火の無邪気な、温かい視線だと思いたい。


 山陰岡山、津山の近くの、父の生家がある村には、海軍水雷学校に志願して農業を継がなかった三男坊の父へも、柿の木に囲まれた相続分の畑があった。しかしそこで家族が食いつなげる食糧ができていた記憶はない。何故なら母は大きな幼児だった私を背負い、さらに山奥に居る自分の生家の兄のところまで何度も食糧を貰いに行っていたからだ。背中に負われた私の、満員列車での足の痛さでよく憶えている。


 両手に持てるだけの食糧を提げて、もう発車し始めた汽車に必死の思いで駆け込んだ母の背中で、一緒に泣いて焦っていた幼い私の想いは、今も老境の夢路を定期的にかき乱しに来るからだ。


 きっと父の生家の姑や小姑からの「草取りに来い」「耕さないと土が痩せる」などの命令に従がって、母は駆り出されていたように思えてならない。母が畑を耕すのを見ながら、私は田舎には今でも有る「嬰児籠(イジコ)=幼児を容れて畑仕事をするため藁で編まれた大きな籠」の中に、飯ばかりの弁当が冷めないよう気遣いながら終日居た記憶がある。


 汽笛が聞こえると籠から出て、崖寄りの畑の端まで行ってみる。目の下に黒煙を上げて走る汽車が見えるからだ。しかし或る時から私には汽車だけではない楽しみが増えた。父の実家の牛だったのだろう、まだ中子供の可愛いベコが繋がれているのが、汽車の見える畑の端と反対側の端に見えるようになったのだ。


 山頭火の句の「花野」ではなかったが緑の草むらの中の棒杭に繋がれて、ベコは優しい目をして幼い私と時々目を合わせながら、母を恋しがって鳴くでもなく草を食んでは紐の長さ分の円を描きながら歩いていた。私は汽車の汽笛が聞こえるまでは飽かずにベコを眺め、汽笛が聞こえると崖寄りの畑の端まで走り、汽車を見送って又ベコ側に駆け戻る、そんな日々を少なからず送っていたように思う。


 あの、記憶のページの蒼茫の部分に、きらめく色彩と共に蘇るフラッシュのような数コマ・・・この歳になって尚、心底「母を恋うる」至福の数コマでもある。


 あぁ、凄惨ながんバトルから例え小1時間でも離れて、心を山頭火と遊ばすことは「心の良薬だなぁ」と感じさせられた。流石に小1時間でも歩けば脚は痛いが、揺れ動く心からの逃避にはなる。「よし、腹が括れるまで、出来るだけ歩こう!」と 心を決めた本日であった。


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