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今、こんな本を書いています-9

2016年02月23日
(今、こんな本を書いています-9)


※初版本【生還へのフォアボール】では、私の闘病記を縦糸に、私の心の此岸(しがん)に色濃く思い出を記して先に逝かれた友垣・諸先輩・縁人(ゆかりびと)たちのことを横糸に紡いで、切なく懐かしく書かせて戴いた。


・今回の【がん連戦と山頭火】では、初版本以降に逝かれた方々を書かせて戴きたいと思う。逝った友垣は今日迄で3人だが、この本が上梓されるまで、どうかこのまま増えないで欲しいと切に願うものである。2006年1月の、私のビジネスの師匠だった滝 雄三先輩(文中では垣さん)の急逝が余りにも悲しく、どうしても上京出来なかったことを機に、「私自身、寿命が尽きるまで『がんバトル』の旅人なのだ。通夜・葬式という悲しみの場には、もう決して行くまい」と心に誓った。


・世間には「結婚式は兎も角、葬式を欠礼する輩は下の下」という風潮があることは百も承知だ。しかし「がんバトル」は命の遣り取りで、いくら家族の愛情が細やかでも友垣らが親切でも、当然誰も「殉死」などはしてくれない。独りボッチの闘いなのである。そんな私だから、「最も葬儀の場には相応しくない」と自分に言い聞かせている次第だ。


・ただ情報さえ入って間に合えば、心の籠った長文の弔電だけは、都度打たせて戴いているが、今日は、好漢・岩佐三朗氏(2012年逝去、私と新卒入社会社=O社の同期)の3回目の祥月命日である。その弔電のお陰で、賢い奥様(正式にはウイドウ)とは時々メールで、三朗氏の思い出話が出来る。


【13:畏友・岩佐三朗氏の3回目の祥月命日に・2015年6月15日(月)】


[ふたたびはわたらない橋のながいながい風]


・山頭火は長い長い橋を渡り切って、ようやくこちらの岸へ辿り着いたのだろう。川風が強かったのだが、「もうここへ来る用も無い。この橋も渡ることもない」と、今渡り切った橋を感慨深く振り返っているのかも知れない。


・ただ私は三朗氏を長い橋中から向こう側に歩いていくイメージで捉えたいのだ。無常の川風が強く、三朗氏の旅立ちの白装束もバタバタと風に煽られている。私の、彼の背中に向けての「おぉいご隠居さん、元気で行くんだぞぉ!」の声も掻き消されそうだが、振り向かないが金剛杖を持った右手が上がった。届いたんだ!


・彼は現役時代、東証一部上場企業数社の経営コンサルタントを務め著作も多いが、奥様らが彼の未完の遺作を完成させた【仕事師】が、一番彼の人柄を際出させている。特に「今際(いまわ)の言葉」がいい。


・今際(いまわ)の言葉は、万感迫って「その人柄」が顕れていて良い。私が好きな言葉は沢山有るが、越路吹雪の「ツネミさんにコーヒーを」も好きだ。良きパートナーだった旦那・内藤法美(ないとう つねみ)氏への気遣いが溢れていて、ジンとする。


・信長公の本能寺に於ける「是非もなし」も良い。明智の謀反と知り、光秀の用意周到さを知っているだけに「どうしょうもないな」と呟いたと言う学者も居るが、一代の英傑が愚痴る筈もない。瞬間的に「よし、ならば戦闘態勢に入れ!」と少ない手勢に檄を飛ばしたに違いない。


・しかし、今際の言葉で圧倒的なのは、この岩佐三朗氏の「はい、さようなら」なのではないか。自分の人生の集大成とも言える遺作の完成を待たずして逝ってしまった彼だが、「はい、さようなら」は長い闘病(がんバトル)に寄り添って来た奥様が、たまたまベッドサイドから離れた時だったらしい。


・遺作に詳述は無いが、奥様は見舞いに訪れた息子さんに、何か飲み物でも買いに出られた時だったのか?当然狼狽されただろう奥様は、「他に何か、言いませんでしたか?」とドクターに尋ねる。しかしドクターは、「いえ、『はい、さようなら』とだけ」と答えている。


・私はこれまで、これほど簡潔に、これほど想いの篭った「今際の言葉」を聞いたことがない。「はい」には身内やドクターらへの感謝が溢れており、「さようなら」には自分の人生をやり切った満足感と、長の旅路へ出立する決意さえ感じられる。短気だった彼だが、奥様には滅法優しかったようだ。「ご隠居さん」の仇名通り若い時から老成したイメージがあったが、「『破顔一笑』とは彼のために有る言葉か?」と思えるほど、笑顔のチャーミングな三朗氏だった。


・そうだ、「今際の言葉」も訊いてないし、弔電も打てなかったもう2人の友垣についても、岩佐三朗氏繋がりで、ここに一気に書かせて戴こう。先ずは三朗氏より2年前、2010年2月21日に逝ってしまった立石和弘氏(O社では私より1期下の6期生)についてである。


[おもひでは汐みちてくるふるさとのわたし場]


・この山頭火の句は、殆ど解説が要らない。情景だけを思い描けば、山頭火の想いが伝わってくる。「潮」ではなく「汐」の字を使っているから、夕方なのだろう。ヒタヒタと満ちてくる汐と汐の香、山頭火の胸にも「後悔と涙の汐」が満ち満ちていたのだろう。誰からも好かれ、生涯広島訛りが抜けなかった立石クンの笑顔や声や眼差しが、ヒタヒタと私の胸も浸してくれている。


・私の『4がん5バトル』は、いずれも命の遣り取りの「がんバトル」である。中でも2008年2月には、1.開腹による肝臓がんと近接部位の胆嚢切除、2.5月には新生胃がんの内視鏡的剥離手術の2つのヤマを越えなければならない私の年齢は、65歳最終章と66歳初頭だったのだ。


・新卒入社したO社で、私と縁が有った後輩諸氏が、「さすがに先輩も、年貢の納め時か」と思われたのは当然である。2007年正月の20日21日、先述した岩佐三朗氏の愛弟子にあたる多田眞行氏の箱根の契約別荘に、みんなが集ってくれた。東京からは多田氏の他長田俊明氏・中島全宏氏、静岡からは鈴木茂光氏、徳永一廣氏・迎 明氏、東海からは桜井勝己氏・阿部顕一氏・遠藤正郎氏・古川信博氏、大阪からは私の、計11名の温泉・宴会・カラオケ・部屋での深夜までのダベリ大会だった。


・数ある異名の中で、『教育カンパニー』を自認していたO社の特に営業マンは、その頃年間平均1.7ヵ月に及ぶセールストレーニングセンターでの山篭り集中研修を課せられていた。それは箱根に雄大なスケールを誇る【ホテル小涌園】さんの別館、山の頂上のドライブインの一角に、自前の研修センターの建屋を設けるほどの本格的なものだった。あの1972年2月の連合赤軍と機動隊が激突した『あさま山荘事件』も、私はこの研修センターでテレビに釘付けになったものだった。


。森校長以下、私と同期の井口氏・浅野氏ら常勤インストラクターはみな紳士だったが、本社中枢から派遣されて来る臨時講師は、「いいかお前ら! 見ず知らずの人間に道を訊かれたら、嘘を教えるんだぞ、嘘を!」が口癖の、一期生の〔天才・石原先輩〕を筆頭に、才幹に富んだ鬼のような面々だった。


・毎日が宿題漬けで、部屋に戻ってからの勉強は午前二時三時までの毎日、落第すれば退校処分になる厳しい掟だった。(尤も、落第してM&A会社を立ち上げ、大成した同期の〔分林保弘氏〕の様な例もあるが・・・)


・従って冬の箱根・強羅は、O社で鎬(しのぎ)を削った我らにとっては、青春の魂の還る聖地だったのである。私もその日、胸をときめかせながら大阪から小田原まで新幹線ひかりに乗り、小田原から涙の出るほど懐かしい箱根登山鉄道に乗って箱根湯本から強羅へ向かい、そこから又ケーブルカーで中強羅の会場まで足を運んだわけである。


・何十年ぶりかで見る箱根の風情は、夕映えの私をすっかり青春に回帰させてくれていた。さらに出会った私を含めて11人の仲間の面々は、みんなそれなりに年輪を重ねた顔の向こうに、瞬時に青春の顔を見つけ出すことができたものだった。


・その年の10月27日、「激励のだめ押し」で同じような面々が、私のかつてのシマだった名古屋・大須に参集してくれた。東京の中島氏が来られず、静岡の迎氏は「がん闘病の真っ只中」で箱根のメンバーから2名が欠けたが、東海から小坂井重樹氏、そして大阪からこの項の立石和弘氏が駆け付けてくれて、やっぱり11人のメンバーだった。


・私はこうして友垣らの熱い声援と支援で、2008年の『がんバトルのヤマ』を越えることが出来たのだが、迎クンは2007年12月に、そして立石クンも肺がんを発症し、私の住処からタクシーでも15分の病院で、独りヒッソリと2010年2月に逝ってしまったのだ。


・私が28、29歳と大阪に居た時、立石クンは多田クンと同じ、情報処理端末機のトップセールスだった。ただ親しく飲み食いして唄ったのは、私が既に大阪風来坊になっていた2005年、多田クンと3人で大阪で、そして2008年の「私の激励だめ押し会」の2回だった。


・そうして2回だけ聴いた彼の『僕は泣いちっち』(守屋浩)は良かった。以来、大阪の場末で、彼を偲んで唄ってあげようとしても、彼の真っ直ぐな眼差しを思い出して、必ず泣けて「歌唱破綻」してしまうので、私の胸の奥に大切に畳んで仕舞っている。


・さて、今年正月27日に頓死(心不全)した鈴木茂光氏(立石クンと同期、O社6期生)のことである。家族ぐるみの付き合いだったという多田眞行氏から知らされて、本当に心がバキッと音を立てるように折れた思いがした。半年経った今でも、信じられない思いだ。ただ弔電も打っていない私には、先述の立石クンと同様、「何となく最近、便りが無いなぁ」という「幽冥定かでない世界」に未だ彼らが居るようで、それで悲しみを軽減してくれているような感じもするが。


・多田クン情報によれば、親の代からの大手新聞配達店の社長の跡を継いだ彼は、それこそ八面六臂(はちめんろっぴ)の働きぶりだったようだ。彼からの最後のメールがここに有る。危ない内容では無いので、本に書かせて戴いても彼は怒るまい。先ずは元旦のメールから。「明けまして おめでとうございます。今年は、屁こいて寝る間もなく、31日の23時から、山名神社に詰めっぱなしでした。私は、参拝客へのお神酒を注ぐかかりでした。夜中の1時15分まで係りをやり、1時半解散でした。とても寒いので、今年はまだ風呂に入っておりません。本年もよろしくお願い申し上げます。袋井の氏子総代爺」


・次が多田クンが弔辞で披露してくれた、本当のエンディングメッセージである。「東の野にかぎろひの立つ見えて かえりみすれば月かたぶきぬ・・・毎朝6000歩を目標に約1里散歩している。1月5日の朝6時頃、太田川の畔を歩いていたら東の空が明るくなってきて、西の空には一寸赤みがかった、丸い大きな月が、沈みかかっていた。そのとき、ふと高校の国語の教科書に出ていた、柿本人麻呂の句を思い出した。シェ-ンは45回転のソノシ-トでよく聞いた記憶があります。ゆき村いずみではなかったが、やはり高校時代の思い出の一つです。1月の歌、ありがとうございました。朝晩は寒いネェ。お身体ご自愛下さいませよ。追伸 どうやって編集するのか、解りませんが、ルル坊はかわゆいですね。高校時代回顧爺」・・・


・私がメールで送った2015年1月の歌は『遥かなる山の呼び声』だったことも解るし、クリスマスと年賀を兼用した『グリーティングカード』は、ご近所の〔ルル坊〕だったことも解る。ご本人は生涯「2の線」だったのだが、〔岡 八郎〕似の風貌から、私が29歳の時、多田クンが〔ハッチャン〕の愛称を付け、我らの世界では生涯〔ハッチャン〕だった。先輩たちはチャン付けもせず〔ハチ〕だったものだ。


・その〔ハッチャン〕、或る日突然「カミさんにもしものことが有ったら」という妄想に取り憑かれ、私に「支那鍋の振り方を教えてくれ」とメールが有った。「私は振られんので、広島の境 純夫先輩に訊きな」と答えておいたが、先輩の指導は「百均で雑巾を買って来て、それを返す練習をしな」という真面目なものだった。


・新聞配達店は廃業して、悠々自適で町内会の世話ばかりしていた〔ハッチャン〕だったが、その日は奥様は1階でズッと私用に没頭、〔ハッチャン〕は2階の自室で、恐らく私のブログでも読んでいたのではないか。深夜12時を回ったので奥様が2階に上がると、未だ〔ハッチャン〕の自室は明るい。「おとうさん、もう寝ますよ」と声掛けして部屋に入ったら、机に突っ伏した〔ハッチャン〕はもう、冷たかったというのだ。


[死のしづけさは晴れて葉のない木]


・いかにも彼らしい、静かな死だったのではないか。同時に、「いくら健康管理していても」「いくら夫婦仲が良くても」、お迎えってのはこうして来るのだと思われる。山頭火の表現は、正に研ぎ澄まされている。「晴れて葉のない木」とは、「死のイメージ」に一番近い冬の景色に違いない。


・樹木は「葉裏を行く風」で存在感を示しているし、「生の象徴」でもある。この山頭火の一句、いかにも〔ハッチャン〕の静かな最後に相応しい句ではなかろうか。                    


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