菅野敬子さん、13回忌は無事済みましたか?
2015年08月25日
(菅野敬子さん、13回忌は無事済みましたか?)
・私の新卒入社(私は5期生):O社の菅野先輩(2期生)の奥様である。確か菅野先輩より1つだったか「姉さん女房」だったと思う。ユッタリと豊満な、笑顔を絶やさない奥様だった。
・下戸の菅野先輩は、上京する度に大酒呑みの私を、ご自宅に泊めて下さった。大分出身の先輩の「郷土の慣わし」だったのかも知れないが、生まれ・育ちも東京の奥様には、煩わしいことだったのではないか?しっかしま、いつもウエルカムの奥様であった。
・奥様の手料理で鱈腹呑ませて戴いたあとの「布団」が大変だった。「継ぎ足し」しないと、大男の私のサイズにならないのである。敷布団も掛け布団も、奥様にはいつも「奮闘」して戴いた。そんな奥様の訃報は、2003年8月25日、未だ健在だった私の師匠:滝 雄三氏から届いた。急性白血病とのことだった。私は名古屋から電車を乗り継いで、小田急・小田原線『玉川学園前駅』に辿り着き、師匠と無事会えた。
・メルヘンチックな『山の住宅街』だった。奥様らが尽力して、その山のテッペンに集会場(公会堂?)を造り、その集会場で奥様の通夜・お葬式が催されるのだった。私は師匠と、『お山のテッペンの集会場』までタクシーで行った。「歩いても行ける」という話に乗った方々は、ゼーゼー言いながらの登山だったらしい。
・受付には、私の上司だった池田さんや、同期の井口クン、1期後輩の長田クンらが甲斐甲斐しく働いてお見えだった。コスモスが1輪小瓶に飾られ、その前に置かれた小さな写真立ての奥様と目が合った。「久しぶりね、元気?」という声が聞こえたようで、私はもう胸が一杯になってしまった。
・拙著:〔3がん4バトル闘病記】【生還へのフォアボール】172Pから173Pにかけて、短いが「奥様への感謝の記述が在るので、解説付きで破線以下。
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9-1:2003年にも、縁人(ゆかりびと)3人が旅立つ
・(前略) そして八月二十五日には、O社二期生『菅野先輩』の奥様の白血病死の通夜に並んだ。一九七十年十一月に昇進して大阪へ赴任したものの、中々塒(ねぐら)を見つけず横着をしていた私だった。(解説:社内規定には「1ヶ月以内」と在ったので、梅田近くのワンルームホテルに立て篭もって遊び呆けていたのだ!)
・菅野先輩は関西支社長の目を憚って、(解説:ホントはもう、ブーブー言っていたらしい)ご自分のお住まいに私を帯同し、十日間ばかり四畳半に居候させた。お子さんが既に二人いらっしゃる狭い団地暮らしだったが、奥様は嫌な顔ひとつされず、美味しい朝食と夕食(解説:あんなに美味いハンバーグは、最初で最後である!)を、毎日振舞ってくださったものだ。
・それから三十三回も星霜は巡り(解説:その後何度も上京の折、泊めて戴いたが)、駆けつけた通夜の席で、久し振りに見た菅野先輩は、やはり滂沱(ぼうだ)の涙だった。大阪で、既にスーパーバイザー職になっていた私の頭を、激情にまかせて引っ叩くほどの勝気な人も(解説:「そりゃお前の言うことは正論だよ!セイロンセイロン!」と繰り返すので、「ブルックボンドもあります」と言い返したら、暫く目をパチパチさせて冗談に気がつき、思いっきり頭を引っ叩かれた!)式服の胸を濡らして涙に暮れていた。私は久し振りに『美しい男』を見たような気がしたものだった。
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・記述は2003年の話である。あれから更に、星霜は12回巡った訳である。ってことは、武庫川だったかの団地に居候させられたのは、45年前。私が28歳だった記憶は正確である。(南無)
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