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蒋介石に「恩を仇で返された」松井石根大将の無念

2015年02月18日
(蒋介石に「恩を仇で返された」松井石根大将の無念)

http://www.sankei.com/life/news/150218/lif1502180008-n1.html


・南京を平和裏に統治し、それを最後の華として軍服を脱いだ松井石根大将は、日本在住中の蒋介石の生活の面倒まで見ていた徳人だが、その当の蒋介石のデッチアゲにより、70歳で絞首台の露と消えることになる。


・記事の中に、松井大将の最後の言葉が有る。「願わくば、興亜の礎、人柱として逝きたい。かりそめにも親愛なる中国人を虐殺云々(うんぬん)では浮かばれない」・・・うぅん、無念だったろうなぁ。絞首台の露と消えた方々は7人(A級戦犯として)おられるが、その方々が靖国に合祀されたのはアタリマエダであり、それを国民が参拝して、どこがおかしい?


・産経ニュース・[歴史戦第9部 南京攻略戦 兵士たちの証言(4)]から、記事を以下。

・「【『虐殺は終戦後、米軍放送で知った』 絞首刑の松井石根大将】産経ニュース・[歴史戦第9部 南京攻略戦 兵士たちの証言(4)] 2015.2.18 05:00」


・「南京攻略戦で旧日本軍を率いた元司令官の大将、松井石根(いわね)にとって『南京大虐殺』は寝耳に水だった。戦後、東京裁判で松井はこう証言している。『(大虐殺は)公的な報告を受けたことがなく、終戦後米軍の放送で初めて知った』 戦勝国による追及が始まる中で現れた『南京大虐殺説』。その責任者として松井は昭和23年11月12日、戦犯として死刑判決を受け、12月23日に絞首刑に処せられた。70歳だった」


・「★『松井大将は清廉潔白だった』・・・元陸軍第36師団歩兵第224連隊の少尉、内貴(ないき)直次(93)は戦後、松井の元私設秘書、田中正明から幾度となく聞かされた。田中は11年に松井に随行し中国を訪れた。戦後は近現代史の研究者として活動、平成18年に94歳で亡くなるまで虐殺説に反論した」


・「昭和18年夏ごろ、南京に約1カ月間滞在した経験のある内貴自身もこう言う。『南京に入ったのは攻略戦から6年後。街は商店や人であふれ、平和な様子だった。もし、大虐殺があれば、住民の恨みを買い、われわれは平穏に駐留できなかったはずだ』」


・「★国際法に留意・・・昭和12年7月、日中戦争が勃発すると、予備役だった松井は上海派遣軍司令官に就任。上海、南京攻略戦で軍を率いた。南京攻略を控え、松井は部下に『注意事項』を示し、何度も軍紀・風紀の徹底を図り、捕虜を正しく扱うことや、住民に公正な態度を取ることを指示。顧問として法学者を南京に帯同しており、国際法に注意を払っていたこともうかがえる」


・「12年12月17日に南京に入城した松井は、当時の様子をつづった日記を基にした供述書で『巡視の際、約20人の中国兵の戦死体を見たが、市内の秩序はおおむね回復した』といった内容を述べている。一方で入城後に一部の兵による軍律違反の報告を受けており、法廷でこうも証言した。『南京入城後、非行が行われたと憲兵隊長から聞き、各部隊に調査と処罰をさせた』」


・「非行件数はどの程度なのか。松井の部下は裁判前の尋問で§10か20の事件だった』と述べている。だが、判決はこう断罪した。 『自分の軍隊に行動を厳正にせよと命令を出したが、何の効果ももたらさなかった。自分の軍隊を統制し、南京市民を保護する義務と権限をもっていたが、履行を怠った』」


・「また、南京攻略後に松井が帰国したことをめぐり、検察側は日本が南京での多数の不法行為の責任を問い、司令官の職を解き召還したという構図を持ち出した。松井は『それは理由にはならない。自分の仕事は南京で終了したと考え、制服を脱いだ』と明確に否定したものの、反論は一切聞き入れられなかった」


・「『南京で2万の強姦(ごうかん)、20万人以上の殺害があった』と断定した東京裁判だが、松井に対する判決では『南京陥落から6、7週間に何千という婦人が強姦され、10万人以上が殺害』とそれぞれ数を引き下げた」


・「★蒋介石と親交・・・もともと松井は、孫文が唱えた『大アジア主義』に共感し、志願して中国の駐在武官を務めたほどだった。中華民国トップの蒋介石とも親交があり、蒋が日本で暮らした際には生活の支援をした。その蒋が喧伝(けんでん)した『大虐殺説』によって松井は命を落とした。(解説:蒋介石は「忘恩の徒」というか「不知恩の徒」である!)」


・「松井は昭和15年、上海と南京の土を使い、静岡県熱海市に興亜観音像を建立。日中両軍の戦死者を弔い続けた。戦後、傷みだした建物などを保護しようと、陸軍士官学校58期の元将校らが『守る会』(平成23年解散)を設立、田中が会長を務めた」


・「58期の元少尉の和田泰一(89)は、『普通は敵兵の慰霊はしない。だからこそ、松井大将の思いを残さなければと皆が感じていた』と語り、こう続けた。『当時の記録を読めば事実は別にあることは明らかなのに大虐殺説を許してきた私たちの責任も大きい』」


・「戦前・戦中を全否定するような風潮の中で大虐殺説は日本人にも『定説』としてすり込まれていった。昭和21年春、松井は収監前夜、親しい人を集めた席で次のような言葉を残した。『願わくば、興亜の礎、人柱として逝きたい。かりそめにも親愛なる中国人を虐殺云々(うんぬん)では浮かばれない』」(敬称略)・・・


・【戦犯】連合国は戦争指導者らを通常の戦争犯罪ではない『平和に対する罪』(いわゆるA級戦犯)として、東京裁判で裁いた。東条英機、広田弘毅両元首相、松井石根大将ら7人が絞首刑、16人が終身禁錮刑の判決を受けるなど途中死亡者ら3人を除く25人全員が有罪となった。


・ドイツで行われたニュルンベルク裁判では有罪となった19人のうち16人までが『人道に対する罪』に問われた。日本ではこの『罪』はだれにも適用されなかった。=第9部おわり

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